月曲
義務教育の間中、自宅に引き籠っていた俺は、動かない為に必然的に少食で、余分な脂肪が一切付いていない。だがそれは同時に必要な筋肉も衰えているという事で、初めて毎日のように外へ出歩く切欠となった高校への通学は正直厳しかった。まず登校初日は半分まで歩いた所で足が攣った。すぐさま臨也に連絡してタクシーでの登校となったが、毎日送迎して貰う訳には行かない。
体力の無い俺は足がぱんぱんになって歩けなくなる程に痛む通学が嫌で仕方なく、元々乗り気で無かったのも手伝って入学二日目で登校拒否に陥った。だが、基本的に俺の意見を尊重してくれる臨也はこの時ばかりは保護者の片鱗を見せ、頑として欠席を赦さなかった。泣き縋ったがそれは変わらず、孤独な長距離を毎日歩かされる。学校につけば、今度は精神的に疲労が溜まった。話し相手は臨也と、数年前に働くようになった波江の二人ぐらいだった俺は同世代に囲まれる環境に適応出来ない。それでも虐められたりする事は無く、気が長い理解あるクラスメイトに恵まれた俺は何とか友人を作る事に成功する。元より向こうから俺に興味を持ってきたらしく、地元なのにクラスどころか学校中の何処にも同じ中学出身の奴が居ない俺に注目した。
家に帰ると肉体的疲労と精神的疲労がダブルで俺を苛み、玄関に倒れ込む俺に臨也はわざわざ様子を見に来た。
「おかえり、シズちゃん。今日も生きてこれた?」
「……足を切り落としたい……」
「慣れだよ、慣れ。ほら、今日は玄関まで歩いてこれたじゃない。昨日はエントランスで電話してきたじゃん」
「体力測定……死にたい……」
色んな意味で眼が潤む俺の金髪を臨也は撫でる。何時もならほっと息を吐けるそれ。でも簡単に癒される程今日の俺は余裕が無かった。
本格的な授業に入る前に、身体測定と体力測定が行われた。身体測定は身長の割に痩せすぎだ、と保険医にぎょっとされた事ぐらいしか事件は無かったが、体力測定で地獄を見た。細い体躯に高い身長。見た目だけで周りは俺に運動神経があると判断していたらしいが、生憎俺の体力は恐らく小学生レベルだ。持久走は見事に最下位だった。トップに10分以上差を付けられ、体育教師の失笑を買った。まともなのは体力が関係しない種目で、人並みだったのが長座体前屈。脚力に頼って立ち幅跳びはまずまずの好成績。上体起こしは腹筋が無い為、結果は見える。散々な俺は、ハンドボール投げで冷や汗が出た。俺に筋肉は無いが、膂力はある。化け物レベルの力が。つい周りに煽られて本気で投げたら、運動場のフェンスを突き破って体育倉庫の壁を貫通した。遠くで聞こえたパンというのはボールが耐えきれなくて破裂した音だと俺だけが気付けた。きっとあの球は一流メジャーリーガーでも打ち返せ無かったに違いない。しかし周りはそんな非現実に気付かず、一時的に俺と組んだ相手は「平和島くーん、早く投げてよー」と呑気に手を振っていた。焦った俺は慌てて足元のボールを拾い上げ、死ぬほど手加減して軽く投げた。それでもクラスメイトの頭を横切るぐらいには飛び、晴れて俺は持久走最下位、ハンドボール投げ一位というアンバランスな快挙を成し遂げた。
下手をすればボールで誰かを殺していたかもしれないという恐怖に俺は頭痛を覚えながら、体育館に移動して更なる恐ろしさに手招きされる事になる。ぼうっとした頭で早く終わらせようとした握力測定。ああ、俺は失念していた。純粋な力なら世界の何処を探しても俺ほど握力のある人間なんて居ないという事を。軽く握ったつもりのそれは、きゅう、と可愛い音をたてた。
「……? ……っ!?」
俺の手の中にあった金属製のそれは、ダンプカーに跳ねられた飴細工のようにぐにゃりと折れ曲がっていた。当然だが目盛りの針は振りきれていた。僕には測定不可能です、とでも言うようにくたりと理不尽な生を全うしたその計測器。混乱した俺にとって幸いだったのは、その光景を誰も見ていなかったという事だ。最早元の形が思い出せない計測器をそっと箱に戻した。数分後に他の生徒が奇妙に曲がっている銀色に対し「せんせーい、壊れてるのがあるんですけどー」と声を上げるのを、俺は必死に聞かないふりをした。
普段触るものなら、俺は抑制する事が出来る。例えばシャーペンだとか、コップだとか。慣れ親しんだものでないとどれぐらいで壊れてしまうのか判らず、俺は体操着を着替える手が震えていた。気付けば、此処数年、自宅では物を壊していなかった。臨也の抑止力は恐ろしい。臨也が学校にいてくれたら俺はきっと何も壊さずに済む。そんな筋道立っていない事を真剣に考えるくらいには、俺の心に余裕は残されていなかった。
学校で起きた事をざっと説明すると、臨也はくすりと笑って俺の頬を撫でる。
「まあシズちゃんの化け物じみた力は今に始まった事じゃ無いけどねえ。周りは慣れて無いから仕方無いね」
「怖かった……俺、馬鹿力だって忘れてた……」
ぼそりと呟いた言葉。最近は臨也の仕事に同行して居なかった為に、人を殴った感触を忘れかけている。暴力は嫌いだ。何の快感もない。極力それを抑えようとしていたが、あるなら使わないのも勿体無いと、臨也に降りかかる火の粉は全部俺が払ってきた。
「……臨也、学校……行かなきゃ駄目か?」
「駄目だよ。社会勉強しなきゃ」
「今まで俺が外出るのすら嫌がった癖に……」
「状況は変わるんだよ」
俺が此処まで体力を落とす結果に結び付くのは臨也だ。でも外に出なかったのは俺自身。溜め息をついて痺れる足をマッサージする。慣れとは怖いもので、たった一週間で往復しても攣らなくなった。
「シャワー使いなよ。疲れてるでしょ」
「もう寝てえ……」
とは言っても汗だくの状態じゃ寝るに寝れない。重い身体に鞭を打ち、起き上がった。