【 「 MW 」 】
いつの日か2
1
涼しい音を立てて、グラスの中で氷が揺れる。
結城美智男は崩れた氷の音で我に返って、顔を上げた。死人名義の名で借りたマンションはいつもの通り静まり返っている。少し薄まったウィスキーを舐めて、結城は窓から足もとに散らばる夜景を見やった。
ソファに座り、こうして見下ろす夜景の下には、様々な人間の喜怒哀楽が溢れてているのだろう。そう考えて、結城は誰にともなく鼻でせせら笑った。
いずれ死ぬヤツらだ。
喜怒哀楽なんてそれまでの浮き沈みでしかない。
いずれこの明かりも消える日が来るのだと思うと、とても清々しかった。
グラスをローテーブルに置いて立ち上がる。
寝室の出入り口に立って、結城はドア枠に寄り掛かった。
乱れたベッドの上、賀来裕太郎が昏倒するように寝入っていた。申し訳なさ程度に掛けられた毛布。くしゃくしゃになった黒髪が泣き疲れた顔を隠している。ふと、あの髪に指を絡めて引っ張ったことを思い出し、結城は何となく自分の手を見た。
この数年で痩せてきた指には何も絡まっていない。
痛い、と賀来は何度も言った。
かなりの髪を抜いたと思ったが。
寄り掛かったドア枠から離れ、結城はベッドに歩み寄って、賀来を見下ろした。
賀来は最後まで自分は神父なのだと言い続けた。神に誓いを立てている。これは許されないことなのだと、まるで自分に言い聞かせるように言うので、結城は面倒になってその口を塞いだ。窒息する寸前まで。
聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。だがいざ、彼からどんな言葉を引き出したかったのだろうと思い当たって、結城はきつく眉をしかめる。
言葉? 言葉だって?
神とともにあったもの。
そんなものの何を欲しがったのだろうと自分を笑い、そっと手を、伸ばす。
あたたかな身体。
静かに呼吸を繰り返している。
何となく毛布をたぐり寄せて、結城はベッドの端に腰掛けた。
聖ペトロ高校の卒業式の夜、確かに結城は賀来を抱いたはずだった。得体の知れない怒りに駆られて冷たい床に押し倒した。だが不思議とその記憶は曖昧で、あれから八年経って触れた今晩の記憶もまた、はっきりしていなかった。
「賀来」
呼んで、顔を覆う髪を指先で払う。
はっきりと残る涙の跡をゆっくりと撫でた。
拒もうとする手を押しのけた時、首に掛けていた十字架の鎖を引きちぎった。その時に擦れた傷が首筋にはっきりと残されている。他にも、口を塞いだ時に傷ついた唇が少し腫れて、殴った目もとの色が変わっていた。
「……傷だらけだな」
結城はしばらく賀来を見つめてから、その場を離れた。
賀来のことはずっと知っていた。
離れていた間、聖ペトロ大学にいた賀来がどれほど優秀な成績を収め、どのような経過で飛び級したのか。それから入った神学校でどのようなことを学んだのか。神学校を出た彼が助祭になって山の手教会に赴任すると知った時、会いに行くべき時が来たと思った。
あの地獄を乗り越えられたのか。
神が賀来を救ったのか、知りたかったからだ。
懺悔室で顔を合わせた賀来は相手が結城だと知るとあからさまに顔色を変えて、結城が訝るほどに驚いてから、確かに――はっきりとは見えなかったが――嬉しそうに微笑んだ。離れていた月日を感じさせない笑みだった。
だが、どういうことなのか、あれから何度も会ってはいるが、今の賀来はほとんど笑わない。
それは神父らしい姿ではあったが結城は彼の苦悩を感じ取った。
神は彼を救えなかった。
救わなかったのだ。
俺を救えなかったように、縋った賀来さえ、神は見捨てた――。
今も悪夢にうなされていると聞いたのはつい二時間ほど前のことだった。
2
「顔色が悪いな」
約束の時間通りに、駅前で拾い上げた賀来の顔色はひどく悪かった。車内がいくらうす暗いとは言え、青を通り越して土気色さえに見える。しばらく様子を眺めてから結城が問うと、賀来は小さくかぶりを振って、前を向いた。
「……あとで、話す」
「なんだ、もったいぶるのか?」
「違う。……約束する、あとで話すよ」
しばし横目で見ていたが、それ以上賀来は口を開かなかった。震えているようにも見えた。結城はそんな神父を改めて一瞥し、車の運転に意識を戻す。
助祭という立場にある以上、夜はあまり教会を留守に出来ないという賀来から無理に約束を取り付けたのは、一昨日のことだった。
結城自身、仕事が忙しくてなかなか丸一日の休みを取れなかった。だから夜に出てこいと誘えば、子供たちの世話があるんだ、と言う。俺に会いたくないのかと問えば、賀来は電話の向こうでしばし黙り込み、明後日なら出掛ける用事があるから、そのあとなら会えると答えた。
そういうところは昔とまったく変わらない。
常に結城との約束を優先して、自分の都合さえ、曲げる。
結城は指先でハンドルを叩いた。
神父服姿の賀来は十字架の下がっている辺りを指先でしきりにいじっていた。車内の静けさを乱さない小声で何かを囁いている。それがラテン語であり、祈りの文句だと気がついて、結城は手を伸ばした。
「止めろ」
「!ッ」
胸の辺りを掴むと、身体を強張らせた賀来は結城を見て、大きく目を見開いた。それは結城が訝るほどの驚きようだった。改めて見直した結城の前で、賀来は自分の胸元を見下ろすと、胸を掴んだ結城の手に恐る恐る触れた。
まず、人差し指に震える指先をそっと押しあてて、滑らせる。手首の辺りに手のひらを添えた。何かを推し量るような仕草だが、指の動きがなまめかしい。
「……どうした?」
短い問いで賀来が我に返った。
慌てて手を離す。
「すまない。……なんでもないんだ」
「今のがなんでもないだって? 女なら誘われたと思うところだぞ」
「止めてくれ……」
賀来はあからさまにうろたえて、顔を赤くした。結城はにやっと笑って少しだが溜飲を下げた。俺に隠し事なんかするからだ。さらにからかってやろうと思ったが、震える手を握り締めているのを見て、結城は開きかけた口を閉じた。
つい先週、契約を終えたばかりのマンションの地下駐車場に車を停めて、賀来を促す。賀来は始めて来た豪華なマンションに驚いていたが、手袋を渡した時と同じように、何も言わなかった。言いたいことはあるようだが、何も言う気力がないようだった。
「そこへ座れ」
ソファのひとつを示し、促す。
賀来はソファに腰掛けてぼんやりと夜景を眺めた。何があったか知らないがかなりのショックを受けている。結城は自分用に薄いウィスキーを作って、それからエスプレッソマシーンで濃いコーヒーを淹れた。前に教会で飲んだコーヒーはひどい味だった。
それを運んでローテーブルに乗せる。
賀来の横に腰を落とした。
「それで、お前のあとでというのは、いつなんだ?」
「――……」
「俺はあまり気が長い方じゃない。お前だってよく知ってるだろ」
暗に早く話せ、と示唆すれば、おもむろに横を向いた賀来は結城を真っ直ぐに見つめて、唇を震わせた。また顔が青くなっている。二度、口を開いても声が出ず、落ち着かない仕草で髪を掻き上げてから、囁くような声で言った。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w