渋滞ぬけみちなし
グラウンドから土煙が上がる。その中心にいるのはきっとシズちゃんだ。見なくたってわかる。立ち込める砂のまんなかで手を血に濡らして声に出さずに泣いているんだ。シズちゃんのことならなんだってわかる。だれにも教えるつもりはないけれど、それはひそやかな俺の特技だ。倒れ伏した幾人ものあらくれをぼんやりと眺めていたシズちゃんがグラウンドのまんなかからゆるゆるとこちらを見上げる。泣き出しそうなシズちゃんの瞳はここからじゃ見えない。だけど俺は確信を持ってシズちゃんを見つめて右手をゆるくふる。微笑んだ俺にシズちゃんが血だらけの拳を握り締めるのが見えた。
「またかよ」
呆れたように零された声にうんまあね、と答えて頬に手をやる。そこはシズちゃんの怪物的パンチを食らって青黒く変化しているはずだった。もちろん治療はしたから今は変色した肌なんて見えないはずだけど。ふふ、と笑うとドタチンは心から、といった感じでためいきを吐いた。「どうしておまえもわざわざ殴られるような真似するかね」おとなしくしてろよ、と言うドタチンに、おとなしくしてたらシズちゃんは俺を見てくれるの?と聞いたら酷く渋い顔をされた。そのシズちゃんはいま、教室前にある教卓にもたれて新羅となにか話している。昨日俺がつけたはずの切り傷はもうどこにもない。すこしだるそうに話すそのうしろすがたを見詰める。シズちゃんがいまにも振り返るんじゃないかと思って俺はいつだってそのときのための準備をしていた。だけどいままで一度もシズちゃんが俺を振り返ったことなんてない。いまもシズちゃんは俺がおなじ教室にいることなんて忘れているかのように新羅とうだうだと何事か話している。ガン、と思い切り机を蹴ったら、みんながおどろいた顔でこちらを振り返った。シズちゃんが額に青筋を立てて笑う。物騒な笑みだ。その笑みを受けてにい、と口角を吊り上げて袖口からナイフを取り出す。隣でドタチンが額に手を当ててうつむいた。
「目が合うだけで嬉しいとかそういう域を超えているからねこれは」と新羅は言った。
わかってるよ、と言って裂傷のたくさんできた手を投げ出すと乱暴にぐっぐっと消毒液を塗りこまれた。痛い。「もっと手加減してよ」と言うと「自業自得だよ」と返ってきた。「君、本当になにがしたいのさ」なんて新羅が聞いてくるから「シズちゃんと遊びたいだけだよ」と言うと、新羅は「かわいそうな静雄」なんて言った。どういう意味だ。「俺のほうがかわいそうだよ」と言ってペットボトル入りの麦茶を治療を受けているのと反対の手で掴んで喉に流し込む。「君の場合はかわいそうなのは頭だよ」そういってぺし、と新羅が腕を叩いてくる。どうやら治療は終わったらしい。「ありがと新羅」ささやいて立ち上がるとためいきを吐かれた。「静雄は喧嘩なんかしたくないんだよ」そう新羅は手のかかる親戚の子を諭すような調子で言う。
「化け物がなに言ってるんだってかんじだよね」
「そうじゃなくて、」
「だからさ」
「?」
「だから、俺はシズちゃんが潰したいと思えるたったひとりになりたいんだよ」
だって、そうしたらシズちゃんの心は永遠に俺のものだろう?そう言うと新羅は憐れみのこもった瞳をしてもう一度「かわいそうな静雄」とつぶやいた。
今日も最後にシズちゃんと喧嘩して帰ろうと思って校門で待ち伏せしていたら、しらないおさげの女とシズちゃんが体育館横の人目につかぬ場所に消えていくのを見た。体育館横はうちの学校の告白スポットとして有名な場所だ。見たくもないのに気づけば俺は体育館のそばに立っているふっとい木のうしろに隠れて様子を伺っていた。シズちゃんと並ぶとすごくちいさく見える少女が色白の肌を赤くして一生懸命口を動かしている。シズちゃんは戸惑っているようだった。そのうちシズちゃんはその少女にそっと手を伸ばした。少女が赤い頬をさらに蒸気させて顔を上げる。それ以上見ることなんてできなくて俺の体は気づけば走り出していた。視界いっぱいに広がった茜色の空を眺めていたら思わず涙が溢れそうになって俺は上を向いた。その場にしゃがみこんでちいさく鼻を鳴らす。
俺家で泣いたりするんだよ。そう言ったときに「冗談だろ」と言ったのはどこのどいつだっけ。新羅かドタチンか、まあそのへんだろう。もしかしたらシズちゃんだったかもしれない。ほんとだよ、ちいさく頭の中で思って俺はやたらに赤い空に目をやった。東京の空には星なんて浮かばない。空気が澱んでいるからだ。なのにどうして夕焼けはこんなにも綺麗なんだろう。どうせなら太陽だって消えてしまえばいいんだ。照らされることがなけりゃ涙なんかだれにも悟られることはない。こんな綺麗な夕焼けに照らされるぐらいなら雨のがましだ。毎日酸性雨が降り続けばいい。そして俺のこんなきもちなんか流してくれれば。いつまで経ってもむくわれない、こんなきもちなんか。
「くそ、」吐き出した声が震える。涙が止まらない。
「なにやってんだ、てめえ」頭上から俺がこの世でいちばん気に喰わなくていちばん聞きたい、低い声が降ってきた。「・・・シズちゃん・・・?」見上げるとシズちゃんはあからさまな動揺を顔に浮かべて「お、おまえなんで泣いてんだよ・・・?」と聞いてきた。ハンカチを差し出そうとわたわた体を探っていたが最初から持っていなかったことに気づいたのか俺の着ていたTシャツを無理やり引っ張ってそれで顔を拭いてきた。伸びたらどうすんだよ。その手を振り払おうかとも思ったけれど結局されるがままになりながら俺は「シズちゃんがいなくなってくれないと俺の心はいつまでも土砂降りなんだよ」と言った。「なんだそりゃ?」とシズちゃんは本当にわけがわからないという顔で首を捻る。もっとわかりやすく言え、とシズちゃんが言ってくるので「要するに俺が泣いてるのはシズちゃんのせいだってこと」と言った。シズちゃんの表情に疑問が増える。「俺なんかしたか?」と困惑したように聞いてくる。そのあいだもシズちゃんは俺の顔を俺のシャツでごしごし拭き続けている。いい加減シャツが破れそうだった。
「いつもしてるよ」と簡潔に答えてやる。いつもみたいに笑えたらいいのに。充血した目じゃ恰好がつかない。
「なにを」
「存在してるじゃん」
「・・・てめえ、喧嘩売ってんのか?」
「ちがうよ」
「ああ?売ってんじゃねえか」
「いまは売ってない」
そういえばシズちゃんとこんなにふつうに会話したのは初めてかもしれない。
いつも挑発してばっかりで、シズちゃんは単細胞だし、殺し合いでコミュニケーションをとることしかしたことがなかった。
「シズちゃんなんで俺と喧嘩するの?」
「あ?そりゃてめえがいっつもいっつもいっつもむかつくことするからだろうが」
「俺は違う」
「は?」
「俺はシズちゃんがむかつくから殺したいんじゃない」そりゃかなりむかつくけどさ。でもそれだけじゃない。そういうとシズちゃんはますますわからないって顔をした。首をかしげる。それと同時にシャツがびりっていって破けた。腹が剥き出しになって外気に触れる。ちょっとどうやって帰れって言うんだよ。
「シズちゃん、さっきの女の子どうした?」
「あ?」
「さっきの女の子だよ。告白でもされたんだろ?」