深潭のエンペラトーレ
Four things come not back.
the spoken word, the sped arrow, the past life, and the neglected opportunity.
アラビアの格言に、こんなものがある。
四つのものが帰ってくることは、決してない。
零れた言葉、放たれた矢、生きてきた時間、そして、失った機会。
竜ヶ峰帝人は、先人の残したこの言葉に深く同意する。
泥まみれの喧嘩の原因となってしまった言葉がある。中学生の頃、弓道部の見学会で、的へ一直線に走る矢を見たことがある。幼かったあの日を思って、親友とのツーショット写真をそっと撫でたことがある。そして、失った機会がある。失くしてしまったそれは、それは、……――何だっただろうか。しっくりとくるものが、思いつかない。よって、割愛。
文学、哲学、そんな堅苦しいものを敬遠してしまいがちな帝人がこの格言を知ったのは、彼の部下が話題に持ち出したからだ。
かつて、趣味で情報屋を営んでいたという彼、折原臨也の話題は豊富だ。気の抜けた炭酸のようなどうでもいい日常の話から、街を汚す薄暗いゴシップに、彼の宿敵への怨み言まで。彼と居て、うざったいと思うことがあったとしても、退屈することはない。
そして、つい先日のことだ。
『ねえねえ、帝人君。君は、そんなこと感じたことってある?』
いつもと同じ、あの腹の底が見えない笑顔で、臨也は尋ねた。
その質問に、話題に、何の意味があったかは分からない。日常のどうでも良いような会話の中に、欲しい情報を引き摺り出すための質問を、彼は潜ませることがある。そうかと思えば、意味深な言葉の連なりに、足跡さえ残さないこともある。一言にまとめるのなら、「分からない」。
臨也は、不可解な人間だ。
人間という生き物、そしてそれが辿る人生というものは、不可解なようであって、実は、驚くほど単純だ。流れる時間をただ見つめるだけ、身を委ねるだけ。多くの人間は、そうやって一生を過ごす。
一度しか体験できない人生だというのに、踏みしめて歩かないということは、なんと愚かなことだろうか。そう嘆き、見下し、嘲笑う者。単純な生を嫌い、流れに逆らう、少数派。それが、彼だ。そして、彼は、愚かだと罵りながらも、そんな人間達が愛しくて堪らないのだと言う。益々、不可解。
そんな「不可解な」彼は、惰性のままに生きている「単純な」自分に好意を寄せているらしい。少なくともそれは、彼が人間一般に向けているようなものではない。もちろん、親愛でも、ましてや恋慕でもないのは確かだ。それを向けられている帝人だが、一体それが何であるのか判断がつくはずもなく、ただ好意なのだろうということしか分からなかった。否、それ以上を知ろうとしなかっただけなのかもしれない。彼の愛情は歪んでいる。どす黒いそれを覗きたくなかったというのが、本当のところなのだろう。
もう一度言おう。彼は、折原臨也は、不可解だ。ここまで中身の見えない人間は、そう多くはない。
そこで、ふと、帝人は疑問を感じる。臨也はこの格言に何を思うのだろうか、と。
だが、やめた。
尋ねたところで、彼が答えるかどうかは分からないし、何よりも、別にどうでもいいからだ。臨也がこれに何を感じようが、帝人が思ったことが何であろうが、どうだっていいのだ。格言がある、それだけだ。言ってしまったことや、飛んだ矢、過去、チャンス、それらはどれも戻らない。ただ、それだけのこと。
「帝人君」
名前を呼ばれて、帝人は顔を上げた。にこにこと音のしそうな笑顔で、臨也が顔を覗き込んでいた。
何も知らない人達は、きっとこの笑顔に騙されてしまうのだろう。人好きのする笑顔だ。彼が彼のままに微笑めば、絶対にこんな穏やかな笑みにはならない。不可解なだけではなく、彼は悪魔のような人間だ。
「何か考え事?」
「ええ、まあ、少しだけ」
彼が少し前に言った格言について、ということは言わない。
「そう。こういう話の時に、帝人君がぼーっとしてるの、珍しいと思ったから」
帝人はその言葉にはっとした。しまった。今は報告を受けているところだった。
最近、物思いに耽ることが多いな、と思った。学校の期末考査まであと少しだというのにも関わらず、今抱えている問題は複雑深刻。勉強と仕事の両立のおかげで、ベッドに横になればそのまま眠ってしまうような毎日だ。今朝、幼馴染に言われたように、少し疲れているのかもしれない。
「(これくらいで疲れるなんて、やっぱりダメダメだな……)」
高校生だから仕方が無いのだと、部下達は言う。だが、年長者達のその労わりの言葉に、帝人は苦笑を浮かべることしかできない。
何故なら、今の自分と同じ年頃の少年が、【これ】を創設したからだ。
作品名:深潭のエンペラトーレ 作家名:れみ