深潭のエンペラトーレ
帝人には、兄がいる。彼の名前は帝一。年齢は、おそらく二十三。「おそらく」というのは、もしも彼が何処かで生きていれば、の話だからだ。
彼は、俗に言う「行方不明」の状態にある。
今、どんな顔貌をしているのか。何の仕事をしているのか。何処にいるのか。それは国内、それとも、国外? しかし、彼の生死は分からない。生きている? もしかすると、既に……?
九年前。彼は高校生で、帝人はまだ小学生だった。
田舎の中学校で飛び抜けて成績が良かったらしい帝一は、その春に、都会の高校に入学した。
帝人は、出発の日に、兄と離ればなれになることを泣いて嫌がったことを覚えている。そして、宥めるように、彼が帝人の頭を撫でて、掌に飴玉を落としていったことも。大好きな苺味の飴は、泣きすぎたせいで鼻が詰まって、味が分からなかった。
思えば、それが最後だったのだ。
夏休みだが忙しくて帰って来ることができない。そう、電話越しに早口で言った彼は、冬を待つことなく、そのまま何処かへ姿を消してしまった。まるで池袋という街に飲み込まれてしまったかのように、彼は突然いなくなった。
離れて暮らしていた自分達が、彼がいなくなってしまったことに気が付いたのは、随分と後になってからだった。
捜索届けを出した。思い当たる友人知人に聞いて回った。東京に何度も繰り出し、足で探した。でも、どれだけ経っても、帝一は見つからなかった。あの大都会の波の中に、たった一人の人間を探し出すことがどれだけ難しいことなのか。小さかった帝人にも、何となくそれは分かっていた。
そしてその時から八年後の春、帝人は田舎を出た。
豊島区にある私立高校、来良学園。帝人はそこに入学した。来良学園は、帝一の入学した、旧来神高校だ。兄の足跡を辿るように、帝人はそこを選んだ。
しかし、「帝一を探し出すこと」が帝人の上京の目的ではない。
九年前の出来事を知っている者達は、皆一様にそう勘違いをする。両親も、実際に口に出さなかったが、きっとそう思ったに違いない。だが、帝人はそれを否定しなかった。相手が言わないのなら、首を横に振るつもりもない。
実は、帝人は帝一のことを半ば諦めていたのだ。
否、これには少し語弊がある。誤解して欲しくないのは、帝一の生存の可能性を諦めたというわけではないことだ。
帝人は「帝一を探し出すこと」を諦めているのだ。彼はきっと何処かで生きている。帝人はそう確信している。だが、彼を捕まえることは、きっと自分にはできない。彼が自分に見つかろうとしてくれない限りは。
あの時から今までのこの九年間。帝人は、自分のできる範囲の中で、帝一を探した。帝一の生きた十六年間を、帝一という人間を、精一杯の情報網を張り巡らせて調べ、そして、自分があまりにも竜ヶ峰帝一を知らなかったことに驚いた。
帝一は、不可解な人間だった。
調べれば調べるだけ、分からない人間だった。
成績は優秀で、地元一と言っても過言ではない。スポーツは万能だが、部活動には所属しておらず、時々運動部のスケットとして呼ばれていた。毎年生徒会役員に推薦される程、教師や友人達からの信頼は厚い。交友関係も広い。読書が好きで、図書館によく通っていた。大学進学を希望して、進学校に入ることを考えていた。
――それだけなのだ。
両親、親戚、友人、クラスメイト、先輩、後輩、先生。誰に聞いても、皆、一様に、同じようなことしか答えない。完全無欠の、まるで漫画に出てくる万能人間のような男。分かったことはそれだけだ。帝一の人間性を、誰一人として語ることはなかった。
「薄っぺらな人間、竜ヶ峰帝一」、それが帝人の中での、兄への認識だった。
兄がいないというだけで、特別何かが変わるというわけでもなかった。元々、帝一は実家を出ていたのだ。生活は何一つ変わらない。
もちろん、いなくなってからしばらくの間は、不安と寂しさ、そして心配で胸はいっぱいだった。しかし、いつの間にか、徐々にそれも薄れていく。帝一という人間への好奇心が、代わりにそこを満たしていたからだ。少しずつ、地道に、帝一のことを調べていく毎日。兄はいつでも傍にいる気がしていた。
それに帝人は、帝一が死んだという気は、まったくしなかった。両親は帝一がまるで死んでしまったかのように嘆き悲しんだが、どうしても、帝人には帝一が死んだとは思えなかったのだ。理由は無かった。ただ、漠然とそう感じていた。
そして、帝人が中学生になった時。それは確信へと変わる。
中学一年生の夏。夏季補講の帰り道。茹だるような暑さにやられて、公園の隅にある、丁度影に入ったベンチに座って、スポーツドリンクを飲んでいた時のこと。
非通知で、携帯電話が鳴った。
出るか否かを迷った帝人だが、呼び出し音は鳴り止まない。
眩しい昼間の公園。白い太陽が、砂場の土を焼く。蝉がうるさい。ペットボトルの水滴が、腕を伝い、肘まで流れ落ちる。じっとりとした肌に張り付くカッターシャツ。蝉は更に声を上げる。頭がぼーっとする。遠くで聞こえるトラックのエンジン。蝉の声。電話。
何となく、その電話を取った方が良いような気がした帝人は、通話ボタンを押した。
耳に携帯電話を当てる。
『――竜ヶ峰帝人君だね』
少し間を置いて、帝人は小さく、はい、と答えた。
若い男の声は続く。
『君のお兄さん、竜ヶ峰帝一のことで話があるんだ』
息を呑んだ。
蝉が、黙ったような気がした。
淡々とした男の声だけが、耳を通過して、脳へ届く。
『単刀直入に言おう。君に……帝人君に、池袋に来て欲しい』
それが、帝人が上京した理由だった。
このファミリーを創った少年、日本の首都の「裏」を束ねた実力者、それが竜ヶ峰帝一、帝人のただ一人の兄。
帝一が【これ】を創設したのは、九年前のこと。高校で親しくなった友人達と創ったのが、その原型だった。
当初は小規模だったそれは、すぐさま勢力を拡大し、わずか半年でその名を池袋に轟かせた。活動を始めたばかりのそれは、当時、池袋の街に蔓延っていたカラーギャング全てを統治下に置いた。圧倒的な力の差、組織の巨大さ、それ故に肥えた富。それは、池袋の覇権を握った。
そして、一高校生とギャングのトップを兼ねていた帝一は、その秋の終わりに、姿を消す。――表向きには。
身を隠した、という方が正しいだろう。
実名を明かさず正体を露にしない池袋の帝王は、表の世界で生きていた、男子高校生の「竜ヶ峰帝一」という日常を、捨てた。
そして、本名の一字を取り、≪ミカド≫と名乗る彼は、裏の世界で生きることを選択したのだった。
それが、九年前のことだ。
しかし、事態は予想もしなかった方向へと転がってしまう。
竜ヶ峰帝一の失踪から、五年後。現在から四年前。
帝一は、本当の意味で、失踪する。
作品名:深潭のエンペラトーレ 作家名:れみ