深潭のエンペラトーレ
「帝人君、やっぱり今日はここまでにしておこう」
またやってしまった。
帝人と向かい合わせに座っている臨也は、苦笑していた。トントンと、書類を机の上で揃え、端を銀色のクリップで留める。
「すみません、臨也さん。臨也さんの方こそお疲れなのに、僕……」
「いいよ。気にしないで。何となく、分かってるから」
臨也はそう言うと、書類を脇に避けて、席を立った。
「何か飲む? 遅くなったから、今日はここに泊まるんだろう。もう寝るんだったら、何か淹れるよ」
ここのところ、ホテルに入り浸りだ。しばらく部屋に帰っていない。と言っても、帝人の古いアパートより、密会のために取るホテルの一室の方がずっと過ごしやすい。ちなみに今日選んだホテルは、昨日のところよりもグレードが高いようだ。部屋が広く、ベッドも大きい。
「いえ、大丈夫です。……臨也さんは、この後何かあるんですか?」
「うん、まあね」
おそらく、こちら側の仕事なのだろう。
大変ですね、と言うのも気が引けた帝人は、唇を結んで黙りこくった。
「何? 一人で寝るの、淋しいの?」
「っんな! 違いますよ、そんなんじゃないです!」
「ははは、可愛いねえ、帝人君は」
けたけたと笑う臨也は、カップを二つ、机に置いた。ほわりと湯気が浮かぶ。
「飲んで落ち着いたら、そのまま寝るといい」
「朝風呂ですか」
「うん。帝人君、夜寝る前に風呂に入らないのって、苦手?」
「ええ、まあ」
「そっか、俺も苦手」
飴色のハーブティーは、優しく胃を溶かすようだった。カップから指先に伝わる温度が心地良い。帝人は遊ぶように、湯気に息を吹きかけた。くるくると回る白いそれは、思う通りに靡かない。
臨也さん。帝人は、呟くように、名前を呼んだ。
「兄は、帝一は……、」
――今頃どうしているんでしょうか。
こくり。紅茶で喉を鳴らす音が聞こえた。ちらりと視線だけカップから上げれば、臨也はカップを机に置いて、唇をなぞっていた。何かを思案するような表情で、目線を床に落とす。
「難しい問いかけだね」
そうだなあ、と臨也は首を傾げる。
臨也が真剣に物事を考えている「素振り」を見るのは、久々のことだと思った。
「帝一のことは、俺もよく分かんないんだよね。アイツ、昔からああだから。無駄に頭良いし、何よりも、不可解だ」
臨也は帝一のことが好きだ。彼が友と呼ぶ人間は、おそらく帝一しかいないだろう。同じ不可解な人間同士、何か惹かれるものがあるのだろうか。帝一も、臨也を友としたらしい。もちろんこちらは唯一ではないし、何よりも、臨也の言うことだ。それが本当かどうかは定かではない。
「うん、分かんないね、本当に。生きてるか死んでるかだって、正直なところ、分からない。まあ、アイツは殺しても死なないから、どうせ何処かで生きてるんだろうけど」
やはり、彼も同じことを言う。
似たようなことを、静雄や新羅にも尋ねたことがあった。そして二人とも、今の臨也と同じように答える。殺しても死なない。だからどうせ生きているだろう、と。
「まあ、帝一のことはもういいよ。だって、いないんだし。今の俺のボスは、君だよ、≪ミカド≫」
彼の興味の対象は、ころころと入れ替わる。
臨也のままの、そのいやらしい笑みに、帝人は内心で溜息をついた。
彼に興味を持たれているということは、自分が≪ミカド≫であるということだ。彼はきっと、自分が≪ミカド≫でなくなれば、すぐに興味を失うだろう。きっとそうだと思う。
「さあ、今日はもう早くお眠りよ、帝人君」
失った機会は、何だっただろうか。分からない。
だが、もしも失くしてしまったそれがあるのだったら、また別の、新しい機会を作ればいい。それだけの話だった。
作品名:深潭のエンペラトーレ 作家名:れみ