出立前夜
布団に入っても眠ることができず、政宗は寝返りを一つ打った。
明朝には尾張に向けて出立だ。あの男――第六天魔王・織田信長の、首を取る。いつになく大きな戦になるだろう。だが、天下を手にする為には、いずれ避けては通れぬ道だ。
政宗はもう一度寝返りを打つ。その唇が、溜息に似た音を漏らす。
だから早く寝なくてはならない。そう解ってはいるのに、眠ることができずにいる。
体の芯が疼くように熱かった。昼間の打ち合いが、まだ気持ちを昂揚させているのだろう。前田慶次とか名乗った風来坊は、見た目に似合わず中々の使い手だった。政宗の本気を引き出しかけるくらいには。
また溜息を漏らし、寝返りを打つ。
普段は比較的寝付きの良い方だ。だが、派手な戦の後などは、こんな風になることがあった。
そして、決まって思い出す。自分を抱いた、逞しい腕のことを。
間近に感じた息の熱さを。
重なり合った唇の感触を。
寄せ合った胸の鼓動を。
――初陣の夜だった。
気持ちは酷く高ぶっていた。初めて人を斬った。感じた鈍い手応えは、そのまま命を奪う重みだった。稽古とは比べものにもならぬ緊迫した空気と、流された多数の血の臭いに、酔いに似た目眩を覚えた。
戦乱の世だ。自らが生き残るためには、敵を屠るに躊躇の必要などない。そう頭では理解していながら、それでも未だ幼さを残していた政宗の心は、現実を受け止めかねていたのだろう。
身を休めようと寝屋に赴いても、その火照りは癒えなかった。政宗の様子が尋常ではないことを悟り、眠るまで傍にいると付き従って来た小十郎に、半ば掴み掛かるように抱き付いたことは記憶にあるが、自分が何を叫んでいたのかまでは思い出せない。
そして――気が付けば政宗の身体は、一糸纏わぬ姿で彼の腕の中にあった。小十郎も又、何も身に付けていなかった。
指が肌の上をなぞった。
唇が耳朶を甘く挟んだ。
舌が首筋を緩く這った。
そうやって触れられる都度に、端から溶けて行くようだった。
やがては両足の間で存在を誇示していた猛りに口付けられて、全身に奮えを感じた。舐め上げられて、指で擦られて――果てに吐精を促された頃には、もはや政宗の意識は完全に混濁していた。
何をして、何をされて。
何を言って、何を言われて。
そんなことは全て解らなくなっており、ただ快楽の波に揺られながら、その全てを享受し続けていた。
――けれど。
翌日、目を覚ました政宗の傍らに小十郎は居なかった。布団は整っており、夜着も乱れてはおらず――何より、事実その行為があったならば、初めての身としては当然のように痛みを訴えたであろう箇所には、一切傷を負った様子がなかった。
そして出向いた主屋で顔を合わせた小十郎は、その件に関して触れぬどころか、平素と微塵も態度を変えることなく、朝の挨拶を述べてきたのだ。
あれはすべて夢だったのか。それならそれで淫夢を見た証くらいは、あっても良さそうなものだったが。
だが、当時の政宗は、結局小十郎に事実を問い質すことができなかった。
もちろん小十郎は嘘など付かないから、聞けば全て簡単に判明しただろう。だが、政宗はその一歩が踏み出せなかった。理由は自分でも説明できない。
ただ。
それが夢であれ現実であれ、政宗の身体は小十郎を忘れられなかった。何年もの間、ずっと。
今までならば、この記憶を辿った後は、そのまま反芻しつつ一人遊びに耽るのが流れであった。だが、その夜は――。
「やっぱ……このままじゃいらんねぇよな」
呟いて身を起こすと、布団を抜け出し部屋を出る。今夜こそ自分は――あの日踏み出せなかった一歩を踏み出すのだ。
尾張を目指す、その前に。
小十郎の部屋には、未だ灯りが付いていた。政宗は「入るぜ」とひとつ声を掛け、そのまま返事を待つこともなく障子を開けた。
部屋の主は普段着のままで、床の支度もせず、部屋の中央に座していた。その胸では何を思っているのか、垂直に持った抜き身の刀身を見詰めていた。行燈の灯りが刃の上で閃き、それに照らされる精悍な顔は普段以上に険しいものに見えた。
「――明日に障ります。お早めにお休みください」
寝間着のままの主が突然来訪したことに、小十郎は驚いた風もなかった。こちらに顔も向けずに淡々と言いながら、彼はゆっくりと刀を鞘に戻す。
「小十郎、聞きてぇことがある」
政宗は障子を閉めると相手の正面に歩み寄り、そこに立ったまま声を掛けた。
「初陣の夜、あのときお前は……俺を抱いたか」
意を決してのひと言だった。一瞬眉を顰めるように動かした後、小十郎は軽く目を細めて政宗を見上げてきた。
「――何故今頃になって、そのような話をなさるのか」
「聞いているのは俺だ。YesかNoか、さっさと答えろ」
若干の苛立ちを込めて吐き捨てれば、小十郎は小さな溜息を一つ付く。
「……それが、身体を繋げたかということであれば、否、とお答え申します」
刀を畳の上に置きながら答えた小十郎は、それから改めて政宗に顔を向けた。
「ですが――極めてそれに近しい行いを為したことも、又事実に御座います」
ならば、やはり。
あれは夢ではなかったのだ。
そう思った瞬間、身体の奥で熱が再度沸き上がるような感覚を覚えた。政宗は何も言えず、黙って小十郎を見詰め続けた。
その視線をどう受け止めたのか、ふっと息を吐いた小十郎は、平坦な声のまま言葉を続ける。
「あの夜の貴方様は、随分気が高ぶっておられた。初めての戦です、是非も無きことと存じ上げる」
「宥めるためだけに……俺に触れたのか」
「いえ」
小十郎はゆっくり首を横に振って、否定の意を表した。
「それだけであれば、他に有り様など幾らでも。あの夜――小十郎は間違いなく、取り乱した貴方様に滾り申した。欲望の枷が外れる音を聞き、獣の牙が立つのを感じ、ただ何も彼もが愛しくて堪らず、その全てを食らい尽くしてしまいたいと――そう、願いました」
政宗は胡座をかくと、その目をまっすぐ覗き込む。
「じゃあ、なんで――Finishまでしなかった?」
小十郎は目を背けることも怯むこともなく、むしろ静かに政宗を見詰め返す。
「先にも申し上げた通り、政宗様は気が高ぶっておられた。正気を失っておられた、とも申せましょう。貴方様の本意が何処にあるかも知らぬまま、御身を傷つける真似だけはしてはならないと――なけなしの理性が最後まで為すことを押し止めたのです」
一息に言った小十郎は、そこで軽く苦笑を浮かべた。
「……覚えていらっしゃったとは思いも寄りませんでした」
「だから黙って、何事もなかったように振る舞ってた、ってワケか」
返した政宗も又、苦笑混じりに声になる。小十郎は再び色の無い声で「はい」と肯定の言葉を口にした。
「貴方様がお忘れなら、それはなかったも同然の事象に御座います。ならば蒸し返す必要もないかと、そう思いました」
「それは詭弁だぜ、小十郎。俺が覚えていようが覚えていまいが、事実ってヤツは消えやしねぇ。それに何より――お前自身は忘れちゃいねぇ。違うか?」
「そう――ですな」
小十郎は再度、小さく息を吐いた。