宿命
「では、どうしても出奔する気なのですか」
彼女は言った。決して大きくはない、けれど強い口調の声で。
「出奔してはいけないと申すのか」
俺は言い返した。今にして思えば多分、低く震えた声で。
「駄目だと申すなら理由をお聞かせ願いたい。養家のためか。実家のためか。それとも――貴女の体面のためなのか」
俺の言葉に、彼女は小さな溜息を吐いた。
「そのいずれとも関係など何一つありません。わたくしはお前という人間の行く末を案じているだけなのですよ」
「は――!」
思わず嗤わずにはいられなかった。
「そんなもの気にしてくれなくて結構。どうせ一度ならず捨てられた身、野垂れ死んだところで誰も困りはしない筈だ」
もう一度彼女は溜息をこぼした。
「お前の気持ちはわかりました」
言ったきり口を閉ざしたので、俺は礼もせず踵を返した。幼い頃には世話になった相手だから、別れの挨拶くらいはしようと思ったのが間違いだったと思った。これ以上話すことは、俺の側には既に無かった。
――数歩踏み出したとき、呟くような声が届いた。
「つまり――お前は逃げるつもりなのですね」
「……逃げる、だと?」
俺は思わず足を止めて振り返った。
「その言葉、幾らあんたでも聞き捨てならねぇ。取り消して貰うぜ――今すぐ、だ」
吐き捨てて強く睨み付けた。大概の相手なら、その形相を見せるだけで怯んだ。こちらが何をする前でも、勝手に泣いて詫びを入れてきたヤツもいた。だが、彼女は平然と俺を見詰め返しただけだった。
「しかし事実そうではありませぬか」
その声色も、極めて冷静なものだった。いや――むしろ奥底には、微かな侮蔑の色さえ過ぎっていた。
「どうせ藤田の家からも、同じように逃げて来たのでしょう。居場所がないなどと、勝手な思い込みの末に。成る程、確かにお前のような心持ちの者など、神職に相応しい筈はない。実家に戻ったところで、景広様も迷惑でしょうね」
「……黙れ」
俺の声は軋んでいた。頭に血が上り過ぎ、叫ぶこともできなかった。だが、彼女は口を閉ざそうとはしなかった。
「米沢を去れば。お前を誰も知る者の無い場所に行けば。自由になれると思っているのなら――それは浅薄な考えだとしか言えません」
まっすぐな瞳の光が、俺を刺す。
「例え何処に行こうと、お前がお前であることからは逃れられないのですから」
時々考えることがあった。
もしも。
あの時、姉の言葉に耳を貸さずに立ち去っていたなら。
俺はどのような人生を送っていたのだろうか――と。
「もしも――なんて話なら、幾らでもあるさ」
政宗様は言われると低く笑った。
「そもそも人生なんて、もしも、の連続じゃねぇか。そうだな例えば――もしも俺が、右目を失わずにいたら?」
「何か変わりましょうか」
固く絞った手拭いで背中を擦って差し上げながら、俺は問い返す。
「少なくともお前が、俺の“右目”と呼ばれることはなくなるよな」
「その時は普通に“右腕”と呼称されておりますよ」
「Ha! まあ、そりゃそうか」
背中が揺れる。政宗様は振り返らずに言葉を続けられた。
「だがな、小十郎。考えてみろよ。俺は、この目を損ねたからこそ、類い稀無き師と引き合わせて貰えたんだし、お前や成実みたいな掛け替えのない家臣を得ることができたんだ。そうでなけりゃ――今みたいに奥州筆頭なんてやってねぇかも知れねぇぜ?」
「そんなことは御座いませんよ」
思わず苦笑がこぼれた。
「貴方様の器量は、ご自身の持って生まれたものに他ならない。必ずや総次郎様は政宗様に家督を譲られたでしょうし、さすれば遠からず奥州を統べることとなったでしょう」
「随分買ってくれちゃってんだな」
「自明の理を申してるに過ぎません」
背中に湯を掛け、浮き出た垢を流して差し上げると、政宗様は気持ちよさそうに身を震わせて息を一つ吐かれた。
「Ah――さっぱりした。Thanks、小十郎――どれ、今度は俺がやってやる」
「いえ、お気持ちだけで十分です」
振り返られた政宗様に、俺は静かに笑いかけた。幾ら何でも、主に自分の背中を流させるなどできる筈がない。しかし政宗様は「いーから、いーから」と取り合う様も見せず、俺の背中側に回り込んで来られた。
「政宗様」
困惑の声を上げると、政宗様は不機嫌な呟きを漏らされた。
「――無粋な言葉を言わせてぇのか?」
無粋な言葉――則ち「これは主命だ」という、そのひと言。私人としての政宗様は、それを俺に向けることを何より嫌う。だから俺は仕方なく口を閉ざした。
俺にとっては公私の別なく、この方が主であることに変わりはない。とはいえ――否、だからこそ、せっかく二人きりの時間を過ごしているのに、不機嫌にさせるのは本意ではない。
政宗様は満足したような息を一つ吐かれる。それから背中を擦り始めると「さっきの話の続きをするぜ」と言われた。
「もしも、お前が出奔していたら――或いは敵同士として、邂逅したかも知れないな」
「それはどうでしょうか」
俺は小さく笑う。強すぎない、適度な力加減は気持ちよい。
「元々小十郎は武人ではありませぬ。当然仕官するつもりも御座いませんでした。今の身分は、伊達の屋敷にお仕えしたからこそあるものです」
「Ha! お前みたいな逸材なら、遅かれ早かれ誰かが目を付けてたさ」
「これは又、買い被ってらっしゃいますな」
「お前の言葉を借りるなら、自明の理を言ってるだけ、さ」
熱い湯が背にかけられた。随分背中がさっぱりした。
「ありがとうございました」
「Not at all」
振り返って礼を述べれば、政宗様は笑顔を返される。それから二人で湯船に場所を移した。
「なあ、小十郎」
大の男が二人で入るには些か狭い湯船の中、肩を寄せ合うように並んで身を温めていると、程なく政宗様が呟かれた。
「もしも、お前があの時伊達の家に来なかったら、さ」
随分この話題に執着されるものだと、俺は少しばかり驚き、同時に困惑もした。
もしも、の話。
俺にとっては何ということもない会話の流れで、深い意味も持たず口にした話題だった。けれど政宗様は、まだその話を止めようとはされない。
「それでも俺たちは――必ず巡り会った筈だ」
「政宗様……」
真っ直ぐな口調で告げられて、俺は思わず主の顔を見詰めた。政宗様は俺に視線を向けることなく、正面の虚空に目を向けられている。その口元は、微かに笑みを形作られていた。
「成る程、形は違っていたかも知れねぇ。けれど間違いなくお前は俺を見つけただろうし、俺はお前を求めただろう。それが――二人の宿命だ」
「……宿命」
俺は目を見開きながら、その言葉を繰り返した。
何となれば――。
彼女は言った。決して大きくはない、けれど強い口調の声で。
「出奔してはいけないと申すのか」
俺は言い返した。今にして思えば多分、低く震えた声で。
「駄目だと申すなら理由をお聞かせ願いたい。養家のためか。実家のためか。それとも――貴女の体面のためなのか」
俺の言葉に、彼女は小さな溜息を吐いた。
「そのいずれとも関係など何一つありません。わたくしはお前という人間の行く末を案じているだけなのですよ」
「は――!」
思わず嗤わずにはいられなかった。
「そんなもの気にしてくれなくて結構。どうせ一度ならず捨てられた身、野垂れ死んだところで誰も困りはしない筈だ」
もう一度彼女は溜息をこぼした。
「お前の気持ちはわかりました」
言ったきり口を閉ざしたので、俺は礼もせず踵を返した。幼い頃には世話になった相手だから、別れの挨拶くらいはしようと思ったのが間違いだったと思った。これ以上話すことは、俺の側には既に無かった。
――数歩踏み出したとき、呟くような声が届いた。
「つまり――お前は逃げるつもりなのですね」
「……逃げる、だと?」
俺は思わず足を止めて振り返った。
「その言葉、幾らあんたでも聞き捨てならねぇ。取り消して貰うぜ――今すぐ、だ」
吐き捨てて強く睨み付けた。大概の相手なら、その形相を見せるだけで怯んだ。こちらが何をする前でも、勝手に泣いて詫びを入れてきたヤツもいた。だが、彼女は平然と俺を見詰め返しただけだった。
「しかし事実そうではありませぬか」
その声色も、極めて冷静なものだった。いや――むしろ奥底には、微かな侮蔑の色さえ過ぎっていた。
「どうせ藤田の家からも、同じように逃げて来たのでしょう。居場所がないなどと、勝手な思い込みの末に。成る程、確かにお前のような心持ちの者など、神職に相応しい筈はない。実家に戻ったところで、景広様も迷惑でしょうね」
「……黙れ」
俺の声は軋んでいた。頭に血が上り過ぎ、叫ぶこともできなかった。だが、彼女は口を閉ざそうとはしなかった。
「米沢を去れば。お前を誰も知る者の無い場所に行けば。自由になれると思っているのなら――それは浅薄な考えだとしか言えません」
まっすぐな瞳の光が、俺を刺す。
「例え何処に行こうと、お前がお前であることからは逃れられないのですから」
時々考えることがあった。
もしも。
あの時、姉の言葉に耳を貸さずに立ち去っていたなら。
俺はどのような人生を送っていたのだろうか――と。
「もしも――なんて話なら、幾らでもあるさ」
政宗様は言われると低く笑った。
「そもそも人生なんて、もしも、の連続じゃねぇか。そうだな例えば――もしも俺が、右目を失わずにいたら?」
「何か変わりましょうか」
固く絞った手拭いで背中を擦って差し上げながら、俺は問い返す。
「少なくともお前が、俺の“右目”と呼ばれることはなくなるよな」
「その時は普通に“右腕”と呼称されておりますよ」
「Ha! まあ、そりゃそうか」
背中が揺れる。政宗様は振り返らずに言葉を続けられた。
「だがな、小十郎。考えてみろよ。俺は、この目を損ねたからこそ、類い稀無き師と引き合わせて貰えたんだし、お前や成実みたいな掛け替えのない家臣を得ることができたんだ。そうでなけりゃ――今みたいに奥州筆頭なんてやってねぇかも知れねぇぜ?」
「そんなことは御座いませんよ」
思わず苦笑がこぼれた。
「貴方様の器量は、ご自身の持って生まれたものに他ならない。必ずや総次郎様は政宗様に家督を譲られたでしょうし、さすれば遠からず奥州を統べることとなったでしょう」
「随分買ってくれちゃってんだな」
「自明の理を申してるに過ぎません」
背中に湯を掛け、浮き出た垢を流して差し上げると、政宗様は気持ちよさそうに身を震わせて息を一つ吐かれた。
「Ah――さっぱりした。Thanks、小十郎――どれ、今度は俺がやってやる」
「いえ、お気持ちだけで十分です」
振り返られた政宗様に、俺は静かに笑いかけた。幾ら何でも、主に自分の背中を流させるなどできる筈がない。しかし政宗様は「いーから、いーから」と取り合う様も見せず、俺の背中側に回り込んで来られた。
「政宗様」
困惑の声を上げると、政宗様は不機嫌な呟きを漏らされた。
「――無粋な言葉を言わせてぇのか?」
無粋な言葉――則ち「これは主命だ」という、そのひと言。私人としての政宗様は、それを俺に向けることを何より嫌う。だから俺は仕方なく口を閉ざした。
俺にとっては公私の別なく、この方が主であることに変わりはない。とはいえ――否、だからこそ、せっかく二人きりの時間を過ごしているのに、不機嫌にさせるのは本意ではない。
政宗様は満足したような息を一つ吐かれる。それから背中を擦り始めると「さっきの話の続きをするぜ」と言われた。
「もしも、お前が出奔していたら――或いは敵同士として、邂逅したかも知れないな」
「それはどうでしょうか」
俺は小さく笑う。強すぎない、適度な力加減は気持ちよい。
「元々小十郎は武人ではありませぬ。当然仕官するつもりも御座いませんでした。今の身分は、伊達の屋敷にお仕えしたからこそあるものです」
「Ha! お前みたいな逸材なら、遅かれ早かれ誰かが目を付けてたさ」
「これは又、買い被ってらっしゃいますな」
「お前の言葉を借りるなら、自明の理を言ってるだけ、さ」
熱い湯が背にかけられた。随分背中がさっぱりした。
「ありがとうございました」
「Not at all」
振り返って礼を述べれば、政宗様は笑顔を返される。それから二人で湯船に場所を移した。
「なあ、小十郎」
大の男が二人で入るには些か狭い湯船の中、肩を寄せ合うように並んで身を温めていると、程なく政宗様が呟かれた。
「もしも、お前があの時伊達の家に来なかったら、さ」
随分この話題に執着されるものだと、俺は少しばかり驚き、同時に困惑もした。
もしも、の話。
俺にとっては何ということもない会話の流れで、深い意味も持たず口にした話題だった。けれど政宗様は、まだその話を止めようとはされない。
「それでも俺たちは――必ず巡り会った筈だ」
「政宗様……」
真っ直ぐな口調で告げられて、俺は思わず主の顔を見詰めた。政宗様は俺に視線を向けることなく、正面の虚空に目を向けられている。その口元は、微かに笑みを形作られていた。
「成る程、形は違っていたかも知れねぇ。けれど間違いなくお前は俺を見つけただろうし、俺はお前を求めただろう。それが――二人の宿命だ」
「……宿命」
俺は目を見開きながら、その言葉を繰り返した。
何となれば――。