週末の我儘
『週末、空けておいてくれ』
それは数年来の付き合いの親友からの、とても珍しい誘い方だった。
大抵彼が自分を誘うときは、空いているかな、とか、予定がなければ付き合ってくれ、とか、相手を気遣うような言葉でもって尋ねてくるのが常だ。
それが、こんなにも直接的に「空けておいてくれ」というのは非常に珍しい。
「土曜の夜なら空いているんだが、そこでもいいか?」
『日曜は?』
「夜に予定がある、けど、夜までは」
空いている、と、頭の中のスケジュールを思い浮べながら答えると、
『わかった、ではそこまで俺が予約する』
「構わない、が、………?」
本当に珍しく、ヘスラーにしては強引とも言える物言いに首を傾げたアドルフに、数年来の親友は電話口の向こうで微笑んだようだった。
『アドルフの誕生日を、俺が祝わなかったら嘘だろう?』
そうなのだ、今週の真ん中はちょうどアドルフの誕生日で、今週末は誕生日から数えて初めての休日になる。
同じチームに所属していた頃から毎年毎年、何らかの形でお互いを祝い続けてきたが、それにしたって家族や、他にも付き合いというものがある。
そんなことはお互いに承知済みで、更にヘスラーは他を押し退けてまで、という性分には程遠い性質の持ち主である。
だから、空いた日でいいから付き合ってくれ、というのが今まで変わらなかったスタンスだった。
「それは、嬉しいんだが、」
何かいつもと違うな、とまた首を捻る。
ヘスラーは、はは、と声を出して笑った。
『今年は、特別だ』
1月、5月、5月と続く、かつてチームを組んだ同学年の仲間内の誕生日、7月にそれを迎えるアドルフは、今年、16歳を迎えるのが一番遅い。
共にいた頃は、新年早々に年をとるエーリッヒの祝い事は冬の休暇から皆が戻ってから、シュミットとヘスラーの誕生日は、日が一日違いだということもあり、二人分のお祝いをまとめてやっていたものだった。
間に当時のリーダーであるミハエルの誕生日があったが、これはまあ、大抵とても盛大に賑やかに行っていた。
あの頃のように、チームの全員で集まることは、それぞれの道を進みはじめた今ではそうそう頻繁にはできないが、年に数回は何かと理由を付けては顔を合わせている。
しかし、特別に仲のよかったヘスラーとは、他に比べてまめに連絡を取り合っていた。
不思議と馬が合ったのと、何よりヘスラーの隣にあることに、アドルフ自身がとてつもない安心感を得ていたからだろう。
これといった用事がなくても近況を報告しあい、ふと声を聞きたくなれば電話をした。
『アドルフ、元気にしているか?』
第一声は必ず自分を気遣う種類のもので、距離とは関わりなく変わらない声の距離感に、そのたびに心が解けた。
何が言いたいのかと言うと、つまり、ヘスラーとはそういう人物で、強引に約束を取り付けるなんていう行為とは程遠いのだ。
第一、二人で会わずとも、ちょうどその二週間後には仲間全員で集まる予定が入っている。
ついでにそこでお前の誕生日を祝ってやる、と、シュミットから直々に連絡があったのはつい数日前のこと。
当然ヘスラーにだって連絡はついていて、だから、誕生日を祝うのなら、何も無理に今週末に会う必要はないのだ。
『それでは遅いんだ』
しかし、先駆けてどうしても、という風情のヘスラーに、アドルフは驚きを禁じ得ない。
「何か、ヘスラーらしくない、な」
『そうか?』
「ああ、」
『俺だってたまには我儘くらい言うさ』
我儘。
なんてヘスラーに似合わない言葉だろうと、アドルフは思ったのだった。
親友のごく珍しい「自称我儘」であろうとなかろうと、会えること自体はアドルフにとっても喜ばしいことだ。この上なく。
待ち合わせたのは夕食を気軽に取れるようなレストランで、約束の時間の五分前に店の扉をくぐれば、すでに席に着いたヘスラーの背中を見つけた。
「悪い、遅くなった」
「いや、時間より前だ、大丈夫」
そんなやりとりを交わしてから、改めて顔を見合う。
二ヵ月ぶりの対面だ。
「久しぶり。髪、伸びたか?」
「先月から妙に忙しくて。実は怠けた。みんなで集まるときまでには切りに行くさ。………久しぶり。元気そうで安心した」
「アドルフこそ」
声を聞くだけと、実際に顔を見るのとでは、やはり違う。
昔と変わらない安心感を得て、アドルフの頬は自然、弛む。
ウエイトレスがメニューを持ってきたのを受け取って、ヘスラーが広げた。
「何か飲むよな?」
どこか嬉しそうにしたヘスラーが示したページには、ずらりとドリンクのメニューが並んでいる。
ただし、ノンアルコールのページではない。
やっと解禁なんだから、と言いながら、ヘスラーは自分で飲むものも熱心に選び始めた。
ドイツの法律では、満16歳から飲酒が認められているのだ。
「…もう、誰かと飲んだのか?」
「ああ? いや、友人とは日曜に飲む約束で、まだ、誰とも」
平日に誕生日を迎えたアドルフは、残念ながらその当日も翌日も、あいにくと学校もアルバイトも予定があり、呑気に飲んでいる暇がなかったのだ。
「…………そうか」
頷いて、ヘスラーがふにゃりと笑った。
満面に、崩れるような笑みは、紛れもなく全身で喜びを示しているとしか思えない。
「………ヘスラー? 何がそんなに嬉しいんだ?」
「ああ、いや……で、何にする?」
返事を濁しながら、ヘスラーに尋ね返されて、地元の名産のビールの銘柄を答えると、
「オーダーを」
片手を上げてウエイトレスを呼んだので、結局答えは濁されたまま。
にこにこと始終機嫌のよいヘスラーと他愛のない雑談をしながら待てば、ほどなくしてテーブルの上に、並々とビールのたゆたうグラスが運ばれてくる。
グラス自体、きんきんに冷やしてあったらしく、霜の張ったガラスは触れると冷たく心地よく、白い泡がとぷんと揺れた。
「Alles Gute zum Geburtstag.」
「Danke.」
かちんと合わせたグラスは高く透明な音を立てた。
一口、口をつけると独特の苦みと炭酸の泡とが口の中いっぱいに広がる。
暑い時期のこと、喉を越える液体にとてつもない清涼感を感じて、身に染みるそれに思わず笑顔になった。
「いい飲みっぷりだな」
嬉しそうだと指摘されて、アドルフもまた、ヘスラーの顔を指差した。
「ヘスラーこそ。今日はいつも以上に機嫌がいいじゃないか」
「そうか?」
「そうだろ?」
聞き返しながらも笑顔が崩れないのはその証拠だ。
いったいどうしたものかと今度こそ追及してやろうと思っていたのだが、
「まあ、嬉しいからな」
あっさりと認めた。
「…何が?」
「ん?」
グラスを握った手が、ついと側面に遊んだ。
グラスがかいた汗が、指の動きにつられてするりと下に滑り落ちる。
ぽたりとテーブルに着地して、小さな溜りを作った。
「俺が、一番先に祝いたかった、誰よりも」
「え?」
「お前の一番初めは、俺がほしかったんだ」
「………え、……?」
「嬉しいのは、それが叶ったからだな、まあ、」
ちょっとした我儘だ。