眠れないのは誰のせい?
暗闇の中、必死で走る。
追い駆けて、追い駆けて、自分の足元すら見えぬ暗がりを、息も絶え絶え走る。
眼を開けても閉じても変わらぬこの状況で、滝のような汗を流しながら、痛む腹を押さえ、それでも足を止めようとはしない。その先にきっと在る、至高の宝物を目指して。
(早く、早く捕まえないと)
考えることは一つだけ。
あの運命の日から、どれだけそれを追い求め、渇望したことだろう。手探りの中、罪の重さに軋む体を引き摺り、少しでも近付こうと足掻き続けた。喩え、酷い理不尽な扱いに打ちのめされ、罵られたとしても、成し遂げなければならないことはその惨めさを大きく上回って彼を追い立てる。
手を伸ばして、神経を研ぎ澄ませて、微かに触れる幻を逃がさないよう、遥か遠くに輝く、一条の光を手に入れる瞬間を現実のものとするために。
何よりも大切な人の笑顔を取り戻すために。
走れ。
ふと、無音だったこの闇の中で、誰かの声を訊いた気がして思わず足を止める。
「?」
耳を澄ますと微かに聞こえるその声は、どうやら何かしきりに呟いているようだ。酷く小さく。聞き取りにくいながらも、何故か自分に話しかけているような気がした。
――――ご苦労なことだね。
「っ!」
突然耳の真横で声が響く。
反射的に振り返ったが、やはり姿は見えない。依然、闇が広がっているだけ。にも拘らず姿なき声は、エドを中心に、円を描くようにゆっくりと移動し始める。
――――お前ごときに、本当にアレが手に入れられるとでも?
「誰だっ」
――――図々しいにも程があるだろ。その程度の能力で使いこなそうだなんてさ。
「誰だと訊いている」
近すぎる声音に、首筋が総毛立つ。どれほどを目を凝らしても相手を捉えられないのに、声だけはこんなにも近い。時折掠める息遣いを感じて、逆に呼気を潜めた。
静かな空間に、自分の心臓の音が大きく響いて、その大きさにまた愕き、更に血管が激しく収縮する。
見えない侵入者に覚えのない声。こんなことに拘っている暇はないのに、動き出すことも出来ない自分に焦りが募る。
――――本当は気付いているくせに。
舐めるように、嬲るように囁く言葉は、言霊となってエドを縛り付けた。
――――認めるのが怖いだけなんだろう?
「――っ黙れ」
――――おまえが『石』を求めるのは、単純にもとの体に戻りたいからでも弟への罪滅ぼしでも、ましてや犯した過ちの贖罪でもなんでもない。
次第に激しさを増す動悸に、胸の息苦しさを覚えた。見開いた眼の奥が、極度の緊張で硬直し痛み始める。
聞いてはいけない、理性はそう告げるのに、密やかに断罪するその言葉はまるで自分で喋っているかのように直接頭に響いて、逃げることもできない。
――――本当は、おまえ自身が、
「――…っさい。……うるさい」
――――犯してしまったあの禁忌から、
「うるさいっ!」
――――逃げ出したかっただけだ。
「だまれええええっ」
力の限り叫んで、眼も、耳も、固く閉じた。これ以上は何も聞きたくなかった。すべてに蓋をして、見えないものは無いものとして歩いてきた。それで上手くいっていたのに、此処で揺り動かされる訳にはいかなかった。
――――おまえはあの時こう考えたはず。人体練成に失敗し、弟も失ったあの瞬間。
どんなに塞いでも、閉じても、この声から逃げられない
――――目の前の罪を負う責任を、共に分かち合う共犯者を得ることを。
「ちが、ちがう」
ぎゅっと、耐えるように拳をきつく握って、降り掛かる言葉の責め苦を、微かに首を振ることで否定する。
――――堪えられなかったんだろう?独りでは到底背負いきれるものじゃなかったから。
自分の息を呑む音が、まるで他人のもののように大きく聞こえた。エドは、重ねられる言葉の端々に、責める内容とは裏腹な哀れみの響きを感じ取る。
これは、一体誰だ?
まったく知らない筈の声音、口調。けれど、何処となく知っているような既視感を受けた。この気配、感覚、憶えている。
――――人の命を玩んだ事実から逃げ続けるおまえは、あの、玩具のように命を接ぎ剥ぐ錬金術師と同じ。
けれど、そんな筈はない。その人は他人に対して、こんな風に云う人じゃなかった。
何時も優しくて、暖かな笑顔を浮かべては触れてくれた。
栗色の長い髪、柔らかい雰囲気の、ただこの世で唯一の存在。
――――汚い卑怯者だ。
その時、それまで何も見えなかった空間に、ぼんやりと白み掛かるように周囲の物が見え始めた。そのせいで、姿無き者の姿が現れる。
――――ねえ、自分でもそうは思わないの?
柔らかく波打つ長い髪。健やかな微笑を湛える口元。
「……あ、ああっ」
亡霊が俺を断罪する。俺と同じ、金色の瞳で。
――――エド。
母さん。
「あああああああっ」
汗だくで飛び起きる。勢いで掛けていた毛布も床に落とし、それにも構わず周囲の状況を確かめて、此処が昨夜泊まった宿だと認識して初めて、安堵の息を吐いた。同じ暗闇でも、夢とは違う。大きな窓際に配されたベッドから、明るい月が覗いていた。
皓々と照らし出す月。満月ではなく、欠けた新月に、自分の歪みを表されている気がして、益々気が滅入ってくる。
ひとつ、溜息を吐いた。今度は、安堵のそれではなく、身の淵に溜まった澱みを吐き出すように。
此処にアルが居なくて本当に良かった。わざわざ別々の部屋を取って正解だった。不経済だと云われたけれど、それでも弟にこんな姿を曝け出すわけにはいかない。
ぼんやりと視線を上げ、遥か彼方に輝く虚無の墓標を眺めた。
まあるい綺麗な夜の女王は、自身の力では輝けず、不安定に姿を変える張りぼての星。
恒常の太陽とは違う、翳りある光。それが普段は仕舞い込んでいる己の不安を誘発するのだろう。
次第に冴えていく脳裏で思う。
(ああ、今夜もまた、眠れない)
「おはよう兄さん、よく眠れた?」
朝、眠らないアルは何時も決まった時間に俺を起こしに来る。
「ふぁ~…。はよ、アル」
俺は何時ものように寝過ごし、アルに毛布を剥がされ渋々起きた。
「もう、兄さんは本当に寝汚いんだから。早く顔洗ってご飯食べてきなよ」
「んー…」
ぼさぼさの頭を掻きながら、追い立てられるように洗面所へ移動。途中、ぶつぶつとアルが不満を呟いていたが無視した。何時もの寝惚けている俺には聞こえない筈だから。
眠ることのないアル。いや、眠る必要がないという体に、あの弟は何時の間に慣れていったのだろう。それだけじゃない、食べることも、物に触った感触も、風を感じることさえできないその体の、何処をどう割り切ったのだろう。
(……体?)
自分の考えにひそりと嘲う。
体なんかありはしない。鋼鉄の鎧の中はからっぽだ。存在するのは眼に見えぬ魂のみ。
そうしたのは自分。よく、判っている。
およそ人として必要なものの大半が失われ、それでも存在し続ける可哀相な弟。
(それでも、生きているんだ……)
「兄さん?どうかしたの」
「――――いや、別に何でもない」
怪訝そうに覗き込んでくる弟の顔を見詰める。
失うわけにはいかなかった。いや、失えなかった。この、たった一人の弟を。
追い駆けて、追い駆けて、自分の足元すら見えぬ暗がりを、息も絶え絶え走る。
眼を開けても閉じても変わらぬこの状況で、滝のような汗を流しながら、痛む腹を押さえ、それでも足を止めようとはしない。その先にきっと在る、至高の宝物を目指して。
(早く、早く捕まえないと)
考えることは一つだけ。
あの運命の日から、どれだけそれを追い求め、渇望したことだろう。手探りの中、罪の重さに軋む体を引き摺り、少しでも近付こうと足掻き続けた。喩え、酷い理不尽な扱いに打ちのめされ、罵られたとしても、成し遂げなければならないことはその惨めさを大きく上回って彼を追い立てる。
手を伸ばして、神経を研ぎ澄ませて、微かに触れる幻を逃がさないよう、遥か遠くに輝く、一条の光を手に入れる瞬間を現実のものとするために。
何よりも大切な人の笑顔を取り戻すために。
走れ。
ふと、無音だったこの闇の中で、誰かの声を訊いた気がして思わず足を止める。
「?」
耳を澄ますと微かに聞こえるその声は、どうやら何かしきりに呟いているようだ。酷く小さく。聞き取りにくいながらも、何故か自分に話しかけているような気がした。
――――ご苦労なことだね。
「っ!」
突然耳の真横で声が響く。
反射的に振り返ったが、やはり姿は見えない。依然、闇が広がっているだけ。にも拘らず姿なき声は、エドを中心に、円を描くようにゆっくりと移動し始める。
――――お前ごときに、本当にアレが手に入れられるとでも?
「誰だっ」
――――図々しいにも程があるだろ。その程度の能力で使いこなそうだなんてさ。
「誰だと訊いている」
近すぎる声音に、首筋が総毛立つ。どれほどを目を凝らしても相手を捉えられないのに、声だけはこんなにも近い。時折掠める息遣いを感じて、逆に呼気を潜めた。
静かな空間に、自分の心臓の音が大きく響いて、その大きさにまた愕き、更に血管が激しく収縮する。
見えない侵入者に覚えのない声。こんなことに拘っている暇はないのに、動き出すことも出来ない自分に焦りが募る。
――――本当は気付いているくせに。
舐めるように、嬲るように囁く言葉は、言霊となってエドを縛り付けた。
――――認めるのが怖いだけなんだろう?
「――っ黙れ」
――――おまえが『石』を求めるのは、単純にもとの体に戻りたいからでも弟への罪滅ぼしでも、ましてや犯した過ちの贖罪でもなんでもない。
次第に激しさを増す動悸に、胸の息苦しさを覚えた。見開いた眼の奥が、極度の緊張で硬直し痛み始める。
聞いてはいけない、理性はそう告げるのに、密やかに断罪するその言葉はまるで自分で喋っているかのように直接頭に響いて、逃げることもできない。
――――本当は、おまえ自身が、
「――…っさい。……うるさい」
――――犯してしまったあの禁忌から、
「うるさいっ!」
――――逃げ出したかっただけだ。
「だまれええええっ」
力の限り叫んで、眼も、耳も、固く閉じた。これ以上は何も聞きたくなかった。すべてに蓋をして、見えないものは無いものとして歩いてきた。それで上手くいっていたのに、此処で揺り動かされる訳にはいかなかった。
――――おまえはあの時こう考えたはず。人体練成に失敗し、弟も失ったあの瞬間。
どんなに塞いでも、閉じても、この声から逃げられない
――――目の前の罪を負う責任を、共に分かち合う共犯者を得ることを。
「ちが、ちがう」
ぎゅっと、耐えるように拳をきつく握って、降り掛かる言葉の責め苦を、微かに首を振ることで否定する。
――――堪えられなかったんだろう?独りでは到底背負いきれるものじゃなかったから。
自分の息を呑む音が、まるで他人のもののように大きく聞こえた。エドは、重ねられる言葉の端々に、責める内容とは裏腹な哀れみの響きを感じ取る。
これは、一体誰だ?
まったく知らない筈の声音、口調。けれど、何処となく知っているような既視感を受けた。この気配、感覚、憶えている。
――――人の命を玩んだ事実から逃げ続けるおまえは、あの、玩具のように命を接ぎ剥ぐ錬金術師と同じ。
けれど、そんな筈はない。その人は他人に対して、こんな風に云う人じゃなかった。
何時も優しくて、暖かな笑顔を浮かべては触れてくれた。
栗色の長い髪、柔らかい雰囲気の、ただこの世で唯一の存在。
――――汚い卑怯者だ。
その時、それまで何も見えなかった空間に、ぼんやりと白み掛かるように周囲の物が見え始めた。そのせいで、姿無き者の姿が現れる。
――――ねえ、自分でもそうは思わないの?
柔らかく波打つ長い髪。健やかな微笑を湛える口元。
「……あ、ああっ」
亡霊が俺を断罪する。俺と同じ、金色の瞳で。
――――エド。
母さん。
「あああああああっ」
汗だくで飛び起きる。勢いで掛けていた毛布も床に落とし、それにも構わず周囲の状況を確かめて、此処が昨夜泊まった宿だと認識して初めて、安堵の息を吐いた。同じ暗闇でも、夢とは違う。大きな窓際に配されたベッドから、明るい月が覗いていた。
皓々と照らし出す月。満月ではなく、欠けた新月に、自分の歪みを表されている気がして、益々気が滅入ってくる。
ひとつ、溜息を吐いた。今度は、安堵のそれではなく、身の淵に溜まった澱みを吐き出すように。
此処にアルが居なくて本当に良かった。わざわざ別々の部屋を取って正解だった。不経済だと云われたけれど、それでも弟にこんな姿を曝け出すわけにはいかない。
ぼんやりと視線を上げ、遥か彼方に輝く虚無の墓標を眺めた。
まあるい綺麗な夜の女王は、自身の力では輝けず、不安定に姿を変える張りぼての星。
恒常の太陽とは違う、翳りある光。それが普段は仕舞い込んでいる己の不安を誘発するのだろう。
次第に冴えていく脳裏で思う。
(ああ、今夜もまた、眠れない)
「おはよう兄さん、よく眠れた?」
朝、眠らないアルは何時も決まった時間に俺を起こしに来る。
「ふぁ~…。はよ、アル」
俺は何時ものように寝過ごし、アルに毛布を剥がされ渋々起きた。
「もう、兄さんは本当に寝汚いんだから。早く顔洗ってご飯食べてきなよ」
「んー…」
ぼさぼさの頭を掻きながら、追い立てられるように洗面所へ移動。途中、ぶつぶつとアルが不満を呟いていたが無視した。何時もの寝惚けている俺には聞こえない筈だから。
眠ることのないアル。いや、眠る必要がないという体に、あの弟は何時の間に慣れていったのだろう。それだけじゃない、食べることも、物に触った感触も、風を感じることさえできないその体の、何処をどう割り切ったのだろう。
(……体?)
自分の考えにひそりと嘲う。
体なんかありはしない。鋼鉄の鎧の中はからっぽだ。存在するのは眼に見えぬ魂のみ。
そうしたのは自分。よく、判っている。
およそ人として必要なものの大半が失われ、それでも存在し続ける可哀相な弟。
(それでも、生きているんだ……)
「兄さん?どうかしたの」
「――――いや、別に何でもない」
怪訝そうに覗き込んでくる弟の顔を見詰める。
失うわけにはいかなかった。いや、失えなかった。この、たった一人の弟を。
作品名:眠れないのは誰のせい? 作家名:桜井透子