心紡
散々痛む腰を左手で撫で摩りながら、俺はシャーペンをくるくる回した。世間じゃ浪人回しなんて呼ばれてるらしいけど俺は臨也を真似してやっているだけで、別にサボる気は無い。
本当はそのまま眠ってしまいたかったんだが、まだ時間があるから良いやと引き延ばしていた課題の提出期限が週末明けに迫っている。真面目にやったら一晩じゃとても終わらない量に渋々今日から開始した。とは言っても本気で集中したら終わるんだろうが、基本的に家じゃ勉強しない俺は小分けにする。俺の嫌いな国語、唸りながらデスクで仕事をしている臨也に言葉を投げる。
「なあ、登場人物がどう思ったか答えよって問題さ、四択だから適当に選んでも良いか」
「四分の一だからねえ、ペケ付けられても良いならどうぞ」
「良し」
本の中の世界の住人が考えている事が判る訳無い。実力テストの国語で2位に輝いた友人がからきしの俺を見ながら「国語なんて答え書いてあるじゃん、俺テスト前の五分しか勉強してないよ?」と得意げに言ってきた時は軽く首を絞めておいた。黄泉の国が見えたらしい友人はフォローするように「漢字だけ勉強すればなんとかなるって!」と必死に訴えて来た。そうだ、俺は漢字が嫌いなんだ。
「じゃあシズちゃんがどう思ったか、それに近い答え選べば良いんじゃない?」
「病気のじいさんが勝手に酒飲んで死にかけた、それについての看護婦が思った四択の中に、『死ぬなら迷惑がかからないように老衰で死ね』っていう回答が無いぞ」
「それはもう別次元の問題かなあ」
唸りながら背を伸ばすが、すぐにぴきぴきと腰の筋肉が悲鳴をあげた。くそ、腰砕けになるまでヤりやがって。弱った俺に対して臨也は何時ものようにパソコンを叩いている。何だこの違いは。経験か? どっかの本に、疲労は同じぐらいだけど負担は受け入れる側の方が強いってあったっけ。不公平だ。
一度中断してソファに寝転がる。強張っていた背中を伸ばす事でゆるい身震いをする。高い天井に灯りがぼんやりとともっていて、漆黒に染まる窓に臨也の姿が薄ら映った。返事は期待せず眠ィ、疲れた、眠ィ、腹減ったとぼやいた。二回言ったのは一番比重が高いから。
「あ、そうだ。俺明日居ないから」
「……? ……、……。…………。……は?」
「都外に出ちゃうから。波江は居るからご飯は頼んでね」
「え、何で。いやそんなの聞いてねえ」
頭が理解する事を拒んだ所為か、呑みこむまで随分かかった。前置きが無かったのも痛い。
勢いよくソファから起きあがった見返りに痛む腰。刺すようなそれに一瞬怯むものの、すぐに顔を上げて臨也を見据える。
「今言ったから聞いたね。そういう事」
「っ、……帰りは?」
「明後日の夕方には戻ってくるよ。多分ね」
「……そうか」
判った、とは言ってやらない。臨也が遠出するのは別段珍しい事じゃない。不意打ちだっただけで。
だが高校に入ってからそれまで売る程あった俺の時間は泡沫のように消えた。何かの勘違いのように。必然的に臨也と一緒に過ごせる時間もかなり限られてきた。その僅かな時間だって今のように他に潰される事が侭あって。俺が入学する前と態度が変わらない臨也に不安を感じているのも事実だった。臨也は口では好きだ好きだと言ってくれるけど、本心でどう思ってるかなんて本人にしか判らない。そう思うと俺を高校に入れたのも目障りだったからなのかと負の連鎖は続く。恐ろしい悪循環。俺の最も嫌いな台詞が浮かんで顔色が青くなる。こんな表情見せたくないからと急いで勉強道具を片付ける。臨也と一緒に居たいからと此処で教科書を広げていたが、部屋でも出来る。面倒臭いと飽きられないよう、負担をかけないようにしないと。いそいそと準備している俺にパソコンから顔を上げた。
「シズちゃん?」
「あ、あとは一人でやるから」
貴重な臨也と一緒に居られる時間を自ら潰す愚行に苦笑いする。何か言おうとする臨也の音を遮断するように「やっぱ飯要らない」と余計な事を言った上で事務所を後にした。
ぱたんと軽い音で自室の扉を閉め、電気を点けた。余り使わない机とベッド以外ほとんど何も置いていない。趣味らしい趣味を持っていない俺は殺風景なこの部屋を別段変だとは思わず、やると言っておきながら教科書と課題ノートを鞄に押し込む。答えは来週学校で友人に写させて貰えば良い。
ほとんど記号問題の国語課題。わざわざ臨也に聞く程のものじゃなかったけど、ほんの少しでも会話したかった。出しゃあ良いという考え方で行くならば考えずに全部適当に選べば、散々な出来でも提出点は貰える。勝手だけど、俺がどう思ってるのか臨也に気付いて欲しかった。
「……寝よ」
点けたばかりの電気を消し、携帯で確認した9時を過ぎたばかりの寝るには早い時間に苦笑する。ベッドに寝転んで息を吐く。幾ら身体を重ねても、精神的に自覚した物足りなさは埋まらない。その理由の一端には、臨也が現在遊んでいる奴が居るからで。
「紀田……正臣……」
現在の臨也のお気に入り。臨也はこれを頗る気に入っているらしく中々手放さない。主人を盗られた飼い犬のような心境。今日だって情事の最中に電話がかかってきてひどく気分を害した。臨也はこれに出なかったけど、終わった後で折り返しかけ直していた所を見るに、強い関心を寄せているのが判る。俺への当て付けも含まれているだろうがそれを抜いたって最近の構い方には眼を見張る。携帯の電話番号を教えている事もあって、臨也のプライベートに踏み込まれている気がして悔しい。初めて此処に来て以来、何度か足も運んでいる。
俺は臨也のする事やる事を否定する訳じゃないけど、正直協力もしたくない。紀田と接触するのは趣味の一環だと頭では分かっているけど、悶々としたものは残る。
「……俺の負けか」
惚れた弱みという面で。間違っても俺より紀田の方が臨也に愛されているという意味じゃない。臨也は俺という個人と、人間という全体を愛しているから。という事も、頭だけで理解している。
「クソ」と、押しつけたベッドに罵る。苛立った俺は部屋の外に人が居る事に意識を落としても気付かなかった。