心紡
「おはよ」
土曜は日頃の疲れからか惰眠を貪る事が多い。でも今日から丸1日臨也に会えないと思うと、明け方の3時前から眼が覚めていた。お陰で早くに寝たのに眼の下に微妙に隈が出来ている。
眠れなくなった俺は数時間の間ずっとベッドの上で何とか寝ようとごろごろしていたのだが、結局叶わなかった。後腐れを残したくないので何時もと同じ口調でおはようと返す。起きていると嫌な事ばかりが連想されるので、臨也が出発したら寝ようかなと思った。
「顔色良くないね」
既に着替えて準備を済ませた臨也は貼りつけたような笑みを俺に向ける。臨也のこういう所は嫌いだ。真偽が掴みにくい。他人に向けられた悪意には何を考えているのか大体判るんだが、俺に向けられたものは全然判らない。第三者の視点から見るのと当事者じゃ随分違う。
「そうか? 昨日寝苦しかったから」
臨也と一緒に居ると嫌でも嘘や誤魔化すのが上手くなる。眠れない時に臨也が聞いてきた事も想定して台詞を用意しておいた。するりと淀みなく言う俺。でもさっき顔を洗う時に洗面所で見た自分の顔は確かに病気っぽかった。なんというか、生気が無い感じだ。
喉を鳴らしながら牛乳を飲み干して、冷たいそれが空っぽの胃を通るのに身震いした。そういえば晩飯食べてないんだった。
「最近夜も暑くなってきて嫌になるよ。薄着嫌いだからね、俺」
「ん……、俺も汗かくと鬱陶しいから夏は好きじゃない」
何時もの席について綺麗に焼かれたトーストを口に入れた。一気に吐き気が襲う。冗談抜きで本当に病気かもしれない。
臨也に対する執着を病気というなら間違いなくそれに当たる。馬鹿に塗る薬は無いっていうけど、この病気に処方箋なんて出せないだろうな。無理矢理押し込めて、咀嚼して、飲み込む。口の中の水分が奪われて気持ち悪い。マジで体調崩したかな、と臨也に気付かれないように額に手を置く。伝わってきた温度は何時もと変わらず平熱だ。
「美味しくない?」
「そんな事ない」
言葉と違って淀んだ俺の表情。本当の体調不良なら隠す必要も無いと食べかけのトーストを置いた。
「体調崩したかもしれないから寝る」
本当は臨也を見送りたかったが、見送りたくない気もした。後で後悔するかもしれないが今の気持ちに正直になろうと椅子を引く。今は話しかけないで欲しいと臨也から視線を外すが、無情にも腕を引っ張られる。背が高くても、軽い俺の身体はあっさり腕の中に収まった。
「何か言いたい事、あるんじゃないの?」
「……」
判ってる。臨也が改まって言う時は、俺が言いたい言葉が、臨也も聞きたい言葉なんだって。
だけどそれを言う事はただの駄々だと思っている。力無く左右に首を振る俺に臨也はキスする。何の反応も返さない俺に、珍しく臨也は不安げな顔を見せた。
「シズちゃんがそんなんじゃ心配するでしょ?」
むしろ心配してくれ。その間は俺の事だけ考えてくれるだろう?
言葉を吐き出させようと臨也は躍起になるが、病人のような俺は嫌々と首を振り続ける。
「どうして?」
「……」
俺から答えを聞くまで、例え出発時間が過ぎても動かないんだろうな、こいつは。仕事に支障が出るのを何より嫌う俺は、重たい口を割った。そこから出て来た言葉も、同じかそれ以上に重かった。
「言ってもお前は、……行くんだろう?」
「……シズちゃん」
自嘲気味に笑う俺に臨也は瞳を揺らがせる。そんな顔するな、と俺は額をこつんと合わせた。
「良いから……行けよ。待ってるから……」
『行かないでくれ』なんて言いたくない。
「なるだけ早く帰るから、ね?」
言ったって叶わないなら言わない方がお互い楽だ。
「ん、りょーかい」
そんな事言って臨也を揺さぶるのは良くない。平常心第一の仕事で、信用に関わる。
ぱっと離れた俺は手を振った。臨也の熱を振り払うように。無意味に長い廊下をとぼとぼと進み、後ろ手に締めた扉の感触に嫌気が差す。お互いの感情を確かめるように昨日だって熱を合わせたのに。臨也が俺を手元に置くのは絶対に身体目当てじゃない。もしそうだったらもっと別の、同性じゃなくて異性の柔らかな肌があるだろう。あいつの容貌は贔屓を抜いたってかなり整っている。モデルだって言われても知らなかったら納得する。だから、違う。臨也の愛を受けている自覚はあるけど、自信が無くなってきた。行き場の無い感情を向ける相手が欲しい。でも俺には臨也しか居ない。良い意味で、悪い意味で。
「臨也っ……」
腕で眼を抑える。さっきはあんなに聞きたく無かった臨也の声がもう恋しくなった。矛盾だらけの自分を叱咤し、眠ろうと乱暴にベッドに踏み出す。その振動で、自分が泣いている事に気付いた。一気に溢れかえる滴と感情。
「あ……?」
言おう。臨也に、行かないでくれって。
俺は矛で臨也を殺す事も盾で自分を殺す事も出来やしない。逆戻りして玄関に走る。
「臨也!」
でもそこにはもう誰も居なかった。
ドアを開けても廊下には気配すら残っていない。馬鹿だ俺、どんな事をしても引き止めれば良かった。モラルなんて無視して、臨也に迷惑かけたって、俺のエゴをぶつければ良かった。
やっぱり後悔した俺は止めどなく涙を流し、ドアに縋るように項垂れる。ずるずると膝を折る俺に、誰も声をかけてはくれなかった。