澱みを飲み込む
毎年この日は、じっくりとお茶を淹れることにしている。
遠い場所からやってきて、そして帰って行く人々を見送ったあと。それまでのあわただしい準備や後片付けも終わり、日常が戻ってきた居間の座卓に腰を落ち着ける。
盆に乗せて持ってきたものを座卓に乗せていた手拭いのうえに置き、透明な硝子の茶碗をふたつ、その傍らに添えて。ちらりと見た時計は、午後2時。
「……夕方には着くと言っていましたから、ちょうど良い頃合いですね」
壁に掛けられた時計が規則的に時を刻み、命を削って鳴き続ける蝉の叫びが響く中、目の前のものはゆるやかに形を変えてゆく。
送り盆を終えての後片付けと同時に、氷室を持つ人がやってきて氷を分けてくれる。ちょうど両手で持てるほどの量だ。「もっと差し上げますのに」ともう一つ渡してくるのを「これだけあれば十分です」と固辞するのは毎回申し訳ないが、それでも私は貰う量はこれだけと決めていた。
いただいた氷は湧き上がる天然水が時間をかけて凍ったもので、不純物も気泡も入っていない透き通ったものだった。……私が子供の頃などは、夏になると上司の下に届けられていたように思う。いや、あれは雪であっただろうか。私には一口として与えられなかった夏の雪は、今となっては家庭でも楽しめるものとなっている。もちろん、当時とは製法も食べ方も違うが。
そこまで考えて、私は首を振った。今から作るのはかき氷ではない。たしかに氷を砕く作業はあるが、入る先はかき氷器ではない。
カチカチ。カチカチ。
氷をまずは半分に割り、更に4つ、8つ、16……と砕いていく。砕いた角から見ても氷は曇りなく、今年も良い仕事をされたなぁ、と感心しながら、砕いた氷を用意していたボウルに入れた。そして、用意してあった硝子のポットを置いて、茶葉を手に取った。どの種類のものを使うかは、既に決まっている。
ポットに茶葉を入れて、その上から砕いた氷を投入する。少し大きく残しすぎたかと思ったが、どうやらちょうど良い塩梅に収まってくれたらしい。
茶葉を下敷きに氷が満たされたポットにフタをして、盆に乗せる。盆にはもとから茶碗がふたつ入っていた。
外から漂ってくるのはむわっとした熱気だけであり、鉄のぶつかる音を涼しげに鳴らす風鈴さえ動かない。さすがに暑さを覚えて、扇風機のスイッチを入れた。時計の音と蝉の鳴き声、そして扇風機の羽が回る音が部屋を支配する。
と、じわ、とポットから音が聞こえた。
「……始まりましたか」
熱気に姿を変えはじめた氷は融け、ポットと他の氷を伝って、茶葉へとゆっくりと注がれていく。
ぽた。ぽた。
汗をかいたポットが、中の氷がどれだけ涼やかなのかを伝えてくれる。直接茶葉に落ちている水滴が全ての音を飲み込んでしまったかのように、鮮明に聞こえてきた。
時も叫びも羽音までもを飲み込んでいく水滴。――まるで、私自身さえも飲み込まれてしまうようだ。
座卓の傍らに腰掛けたまま微動だにせず、静かに水滴が底へと集まるさまを眺めている。
ぽた。ぽた。
そのひとつひとつが、意味あるものだった。
それはかけがえのないものであったり、捨ててしまったものであったり、幸福であったり、後悔であったり。氷が水へと変わるまでの間に、私の中のあらゆるものがこのお茶の中へと沈んでいく。
茶の淹れ方としては決して簡単ではない……すぐに飲むことができないのだから……この方法で茶を淹れるのも、この水滴をただ見つめ、数えるためとも言えた。
傍らにある茶碗は、普段使うものよりだいぶ小さめに出来ている。年に一度、このお茶のためにしか使わない。更に言えば、茶葉も出来うる限り「とっておき」のものを用意している。
このお茶のための氷、このお茶のための茶碗、このお茶のための茶葉。
贅沢なことをしているという自覚はあるが、そうしてでもこの日を忘れないようにと思っていなければ、時代の流れに忘れてしまいそうなのだ。ずっと、忘れられないことばかりが続いているから。忘れられないことはしっかりと刻み込んでおけるけれど、「捨ててしまったもの」は、流されて忘れてしまうかもしれないと思うと、恐かったのだ。
2時間ほどが経って、氷は半分ほど融けたようだ。純度の高い氷は融けるにも時間がかかる。ゆっくりと水を得て膨らんだ茶葉からはゆるやかに若草色の液体がしみだして、目にも涼やかな緑色を作り出していた。
その緑色を求めて、茶葉を探しているなどと言ったら呆れられてしまうかもしれない。
――あと1時間か。
時計をちらりと見れば、音が聞こえなくなった時計はそれでも確実に時間を刻み続けていた。
2つの茶碗を見下ろす。同じように見えて模様が違うのは、買った時期が違うからだった。曇ってしまわないように丁寧に扱っているから、両方とも鮮やかな模様そのままに硝子の向こうを透かしている。
だけれどどんなに透明な器を用意しても、求めている色にはならないのだ。
ポットの汗を拭くこともなく静かにポットの前に佇んでいると、
「きゅわんっ?」
「……ん?」
おとなしく居間から姿を消していた愛犬が小さく鳴いて首を傾げた。そのとたん、飲み込まれていた音が一気に戻ってくる。時計の音、蝉の鳴き声、扇風機の羽音。なんと賑やかなのか。
空気を読む犬がわざわざこちらにまで来たということは、私の耳に聞こえたのも幻聴ではなかったようだ。
「ぽちくん、迎えにいってもらってもいいですか?」
私はどうしてもここを動く気にはなれなくて、愛犬に応対を頼んだ。――誰が来たのかはわかっている。ぽちくんが静かに走り去っていったのを確認して、小さく息を吐いた。
……今年はずいぶんと早い到着だ。時間はしっかり守る人だから珍しいなと思う。
やがて床板を痛めないようにと気を遣った歩き方をして、予想通りの人物が居間へと現れた。失礼と思いつつも座ったまま相手を見上げて、歓迎の意を伝える。
「ようこそいらっしゃいました、アーサーさん。お迎えに行けなくてすみません」
「……いや、こっちも早く着いてしまったから。どこかで時間を潰そうにもこう暑くてはどこにいても涼めなかったから、さっさと来ちまった」
あらかじめ用意しておいた座布団を勧めると、アーサーさんは早速あぐらをかいて座る。……いつか、律儀に正座を試そうとしてくれて、うまくできずに後ろにひっくり返ったことがあった。「器用な座り方をするんだな」と感心されて、嬉しかったのを覚えている。……いや、思い出したというべきか。
「これ、こうやって淹れてたんだな」
「ええ」
座卓の真ん中で汗をかいているぽっとをまじまじと見つめるアーサーさん。
「まだ途中なのです。麦茶をお出ししましょうか」
アーサーさんが見ていてくれるなら、私は短い間中座しても大丈夫だろう。そう思って立ちあがりかけたが、すぐに制止の声が入った。
「いや、いい。早く来ちまった俺も悪かったし、それにもうすぐ出来上がるんだろう?」
「ですが……」
「これが淹れ終わるのを待ってる」
そう笑われてしまうと、無理に中座することもできなくなってしまう。浮かした腰を座布団に戻して、再びポットを眺める。
遠い場所からやってきて、そして帰って行く人々を見送ったあと。それまでのあわただしい準備や後片付けも終わり、日常が戻ってきた居間の座卓に腰を落ち着ける。
盆に乗せて持ってきたものを座卓に乗せていた手拭いのうえに置き、透明な硝子の茶碗をふたつ、その傍らに添えて。ちらりと見た時計は、午後2時。
「……夕方には着くと言っていましたから、ちょうど良い頃合いですね」
壁に掛けられた時計が規則的に時を刻み、命を削って鳴き続ける蝉の叫びが響く中、目の前のものはゆるやかに形を変えてゆく。
送り盆を終えての後片付けと同時に、氷室を持つ人がやってきて氷を分けてくれる。ちょうど両手で持てるほどの量だ。「もっと差し上げますのに」ともう一つ渡してくるのを「これだけあれば十分です」と固辞するのは毎回申し訳ないが、それでも私は貰う量はこれだけと決めていた。
いただいた氷は湧き上がる天然水が時間をかけて凍ったもので、不純物も気泡も入っていない透き通ったものだった。……私が子供の頃などは、夏になると上司の下に届けられていたように思う。いや、あれは雪であっただろうか。私には一口として与えられなかった夏の雪は、今となっては家庭でも楽しめるものとなっている。もちろん、当時とは製法も食べ方も違うが。
そこまで考えて、私は首を振った。今から作るのはかき氷ではない。たしかに氷を砕く作業はあるが、入る先はかき氷器ではない。
カチカチ。カチカチ。
氷をまずは半分に割り、更に4つ、8つ、16……と砕いていく。砕いた角から見ても氷は曇りなく、今年も良い仕事をされたなぁ、と感心しながら、砕いた氷を用意していたボウルに入れた。そして、用意してあった硝子のポットを置いて、茶葉を手に取った。どの種類のものを使うかは、既に決まっている。
ポットに茶葉を入れて、その上から砕いた氷を投入する。少し大きく残しすぎたかと思ったが、どうやらちょうど良い塩梅に収まってくれたらしい。
茶葉を下敷きに氷が満たされたポットにフタをして、盆に乗せる。盆にはもとから茶碗がふたつ入っていた。
外から漂ってくるのはむわっとした熱気だけであり、鉄のぶつかる音を涼しげに鳴らす風鈴さえ動かない。さすがに暑さを覚えて、扇風機のスイッチを入れた。時計の音と蝉の鳴き声、そして扇風機の羽が回る音が部屋を支配する。
と、じわ、とポットから音が聞こえた。
「……始まりましたか」
熱気に姿を変えはじめた氷は融け、ポットと他の氷を伝って、茶葉へとゆっくりと注がれていく。
ぽた。ぽた。
汗をかいたポットが、中の氷がどれだけ涼やかなのかを伝えてくれる。直接茶葉に落ちている水滴が全ての音を飲み込んでしまったかのように、鮮明に聞こえてきた。
時も叫びも羽音までもを飲み込んでいく水滴。――まるで、私自身さえも飲み込まれてしまうようだ。
座卓の傍らに腰掛けたまま微動だにせず、静かに水滴が底へと集まるさまを眺めている。
ぽた。ぽた。
そのひとつひとつが、意味あるものだった。
それはかけがえのないものであったり、捨ててしまったものであったり、幸福であったり、後悔であったり。氷が水へと変わるまでの間に、私の中のあらゆるものがこのお茶の中へと沈んでいく。
茶の淹れ方としては決して簡単ではない……すぐに飲むことができないのだから……この方法で茶を淹れるのも、この水滴をただ見つめ、数えるためとも言えた。
傍らにある茶碗は、普段使うものよりだいぶ小さめに出来ている。年に一度、このお茶のためにしか使わない。更に言えば、茶葉も出来うる限り「とっておき」のものを用意している。
このお茶のための氷、このお茶のための茶碗、このお茶のための茶葉。
贅沢なことをしているという自覚はあるが、そうしてでもこの日を忘れないようにと思っていなければ、時代の流れに忘れてしまいそうなのだ。ずっと、忘れられないことばかりが続いているから。忘れられないことはしっかりと刻み込んでおけるけれど、「捨ててしまったもの」は、流されて忘れてしまうかもしれないと思うと、恐かったのだ。
2時間ほどが経って、氷は半分ほど融けたようだ。純度の高い氷は融けるにも時間がかかる。ゆっくりと水を得て膨らんだ茶葉からはゆるやかに若草色の液体がしみだして、目にも涼やかな緑色を作り出していた。
その緑色を求めて、茶葉を探しているなどと言ったら呆れられてしまうかもしれない。
――あと1時間か。
時計をちらりと見れば、音が聞こえなくなった時計はそれでも確実に時間を刻み続けていた。
2つの茶碗を見下ろす。同じように見えて模様が違うのは、買った時期が違うからだった。曇ってしまわないように丁寧に扱っているから、両方とも鮮やかな模様そのままに硝子の向こうを透かしている。
だけれどどんなに透明な器を用意しても、求めている色にはならないのだ。
ポットの汗を拭くこともなく静かにポットの前に佇んでいると、
「きゅわんっ?」
「……ん?」
おとなしく居間から姿を消していた愛犬が小さく鳴いて首を傾げた。そのとたん、飲み込まれていた音が一気に戻ってくる。時計の音、蝉の鳴き声、扇風機の羽音。なんと賑やかなのか。
空気を読む犬がわざわざこちらにまで来たということは、私の耳に聞こえたのも幻聴ではなかったようだ。
「ぽちくん、迎えにいってもらってもいいですか?」
私はどうしてもここを動く気にはなれなくて、愛犬に応対を頼んだ。――誰が来たのかはわかっている。ぽちくんが静かに走り去っていったのを確認して、小さく息を吐いた。
……今年はずいぶんと早い到着だ。時間はしっかり守る人だから珍しいなと思う。
やがて床板を痛めないようにと気を遣った歩き方をして、予想通りの人物が居間へと現れた。失礼と思いつつも座ったまま相手を見上げて、歓迎の意を伝える。
「ようこそいらっしゃいました、アーサーさん。お迎えに行けなくてすみません」
「……いや、こっちも早く着いてしまったから。どこかで時間を潰そうにもこう暑くてはどこにいても涼めなかったから、さっさと来ちまった」
あらかじめ用意しておいた座布団を勧めると、アーサーさんは早速あぐらをかいて座る。……いつか、律儀に正座を試そうとしてくれて、うまくできずに後ろにひっくり返ったことがあった。「器用な座り方をするんだな」と感心されて、嬉しかったのを覚えている。……いや、思い出したというべきか。
「これ、こうやって淹れてたんだな」
「ええ」
座卓の真ん中で汗をかいているぽっとをまじまじと見つめるアーサーさん。
「まだ途中なのです。麦茶をお出ししましょうか」
アーサーさんが見ていてくれるなら、私は短い間中座しても大丈夫だろう。そう思って立ちあがりかけたが、すぐに制止の声が入った。
「いや、いい。早く来ちまった俺も悪かったし、それにもうすぐ出来上がるんだろう?」
「ですが……」
「これが淹れ終わるのを待ってる」
そう笑われてしまうと、無理に中座することもできなくなってしまう。浮かした腰を座布団に戻して、再びポットを眺める。