澱みを飲み込む
1人で眺めていたときは一瞬で消え失せた音が、なかなか消えない。
「こっちは随分と暑いんだな」
扇風機の風を受けたアーサーさんの金髪が揺れる。額に張り付いた髪を剥がしながら、代わりにハンカチで額を押さえた彼を、返答しながらポット越しに垣間見る。
「ええ、どこもかしこも猛暑です。……本当どうなっているのやら」
氷山の一角がからん、と音を立てて崩れた。
氷は大半融けきってしまっている。
残したいものも、捨てたいものも、とけこんだ緑色の液体。
「お、もうちょっとだな」
座卓の反対側からポットを覗き込むアーサーさんの瞳の部分だけ、緑色は鮮やかな色に変わった。
求めていた、捨ててしまったことをずっと後悔している色だった。
私が捨てざるをえなかったもの。
捨ててしまえと心の奥底にしまい込んで、それからずっと捨てたと思っていたもの。
だが結局は捨てることなどできず、こうして時の流れ、記憶の欠片のように見立てた氷が融けだした茶を飲むことで自らの身の内へと還している。だから、卑怯にも捨てずにずっと持ち続けていたものなのだ。
最後の氷が、名残惜しそうに緑色にすべて融けた。
「できましたね」
準備してたっぷり3時間。アーサーさんを1時間待たせてしまったお茶が完成した。
ポットをとりあげて、掻き続けた汗の染みた手拭いですべての汗をぬぐう。そして、濃さが均等になるように何度か回し振った。
「さ、注ぎますね」
均等にしたとはいえ、やはり普通の緑茶同様に注ぐときにも均等の濃さになるようにと注ぎ入れる。透明な硝子茶碗に鮮やかな緑色の液体が注がれ、なんとも涼しげな様相を呈していた。
「……綺麗だな」
茶碗を持ち上げて目線に合わせるアーサーさん。彼の持つ茶碗だけが、私の求める色になっている。
「いただきます」
そしてそのまま、茶碗に口をつけた。
こくり、と。喉の動く音だけが聞こえてくる。この瞬間、音を飲み込んでいた水滴の集まりは周囲の音すべてを消し去っていた。
「……苦い」
呟かれた言葉は、毎年同じ。
人知れずこっそりと吐き出し、還していたことをこのひとに知られて、自分にも飲ませて欲しいと頼まれたときから、一緒だ。
苦いと言いながら、卓に碗を戻すことはしない。味わうように一口ずつ口に含む。私もそれに倣って、お茶を身の内へと還してゆく。
「苦いですね」
本来、茶葉は甘みのあるものを使っている。緑茶の苦味だけではなく甘みも感じられる淹れ方をしているはずなのに、どうしても苦いと感じられてしまうのは、私の捨てなければならず苦々しい思いがそのまましみだしているからだと思う。……だがそれは、私のみが感じるものであり、アーサーさんには関わりない部分だ。
――たとえ何年も前のこの日に、このひととの友情を捨てざるをえなかったとしても。それから歩むことになった訣別の道も。
今となってはあれほど深い友情を育むことはないが、こうしてたまに顔を見せ合い、互いの利益の絡まない部分での交流は続いている。……それでいいではないか。
「アーサーさん、もう1杯いかがですか?」
「ああ、もらうよ」
差し出された碗へ、今度は回すことなくそのまま茶を注ぐ。一番澱んだ部分は、私のもとへと還ればいいのだ。
「……今度は甘いな」
このひとが飲み込む部分には、私の後悔など入らなければいい。
「それは良かったです」
私も空になった碗へと最後の1杯を注いだ。とりわけ濃い部分が集まったそれを眺める。
こうして、来年もまた捨てざるをえなかったものの捨てられなかった澱みを吐き出し還すために、私は氷室から氷を貰い、とっておきの茶葉でお茶を氷出しするのだろう。
そのために、これは一気に飲み干してしまおう。
「本田もこっち飲んでみろって」
ひょい、と飲み干そうとした碗を取られて、代わりに私が使っていない方の碗が手元に残された。
「あ、アーサーさん?」
「そんなところ飲んだらあんまり美味しくないだろ? ……俺が飲んでたほう甘かったから、そっち飲めって」
やっぱり茶は美味しく飲むモンだろ? そう言って、制止する間もなく私が飲むはずだった澱みを飲み干してしまった。
「ああっ!」
思わず出てしまった奇声に、アーサーさんが怪訝そうな顔を向けてくる。
「どうかしたのか?」
「い、いえ……。渋くなかったですか?」
おそるおそる問いかけると、アーサーさんは首を振って、屈託のない笑顔を見せた。
「いや、甘かった。交換する必要もなかったな」
私が澱みだと思って淹れたものが、このひとにとっては甘く感じるのか、と不思議な気持ちになる。
……これで、お茶を淹れる理由がなくなってしまいましたね。
そう思いながら、アーサーさんの碗のお茶に口をつけた。1杯目とは明らかに違う。
「……。たしかに甘いですね」
「だろ?」
毎年こうやって淹れているのに、今年のお茶はとりわけ甘い。苦味の中にも確かな甘みがあって、それがゆっくりと口の中に広がっていく。アーサーさんの瞳の色に染まったお茶は、甘くなったりするのだろうか?
「なあ本田、来年もこうやって淹れてくれよ。面倒なのはわかってるけど、俺んちの紅茶じゃこうはいかないだろ?」
違和感に混乱する私をよそに、アーサーさんはポットを振りながらもう来年の話を始めていた。
私が飲み込むはずだった澱みはこのひとが飲み込んでしまったから、結局それを取り戻すためには、
「では、来年は準備するところからお見せしましょうか?」
こんな提案をすると、彼はすぐに食いついてきた。
「ああ! 是非見せてくれ。……忘れんなよ?」
「忘れませんよ」
どうして澱みを取り戻したいのか、そもそも澱みだと思っているものは何なのかすらわからないままだから、その答えを探し出すまでは手放せないのだ。
「忘れませんから、来年もいらしてくださいね」
そして私は来年のこの日もまた、ゆっくりとしみだすお茶を淹れる。