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ハピネス

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世の中には避けては通れないというものは必ずあるものだ。それは人によっては容易なものでも、自分にとっては酷く難解だったりする。
 例えるならば「宿題」。
 学校に通う者ならみなが避けては通れない物であるが、所詮授業で提示される程度の問題、難しいことがあるはずもなく、ここで云う「宿題」もそういう意味ではない。
 では、どんな「宿題」なのかと云えば……。




「おはようさん、跡部。今日もええ天気やなあ」
 にこにこにこにこにこ。朝から笑顔の大安売りである。一体何がそんなに楽しいのか。聞いたところで、自分にとって不可解な理由を述べられるだけなので、ここは黙って流すことにした。
「ああ、だが今日は生憎と雨なんだがな、忍足」
 そう、外はどしゃ降りの大雨。これじゃ朝練にならないと、急遽体育館でミーティングに切り替わったほどだ。その天気をして、どうすれば「いい天気」と云えるのか、一度その思考回路をこってり説明して欲しいものである。
「嫌やなあ跡部。跡部が近くに居れば、俺の周りは真夏の青空のように晴れ渡った空が広がるんやで!…て、もう何云わせるんよ~」
 云いながら顔に手を当て身を捩る。
 それは俺のせいなのか?
 心底疑問に思ったが、これ以上関わるのが嫌なので、喉元に迫り上がった罵倒を再び呑み込んだ。勝手に云って照れてる忍足は客観的に見て非常に気色悪い。ほんのり赤らんだ頬に、はにかむ笑顔。これが女だったら「可愛らしい」ですむだろうが、自分と変わらない体格の男にやられても。
(視界の暴力)
 それ以外に言葉はない。
「もうほんま、俺跡部のことむっちゃ好き」
 輝く笑顔で云われて、くらり、と眩暈がした。
 もちろん、決して歓喜のそれではなく。
 ……そう、この数日間俺の頭を悩ませているのはこの男のことだった。よりにもよって、同じ同性であるこの自分に、突然、好きだと告白してきたのである。女からの告白ならすでに嫌というほど経験しているが、さすがに男からは初めてで心底驚いた。
(まあ、俺様の美貌に迷うのも無理はねえが……)
 だがしかし、しかしである。いくら個人の感情は自由だと云っても、今までその範疇外だった友 人からの告白には戸惑うなと云う方が無理だ。
「おら、くだらねぇこと云ってねえで整列しろ」
 いつまでも朝から疲れる会話を続ける気にはなれなくて、適当に切り上げようとしたら腕を掴まれ強引に忍足の方へ向かせられた。
「なっ……」
 文句を云うために睨み上げたら、意外なほど真剣な表情の忍足が居て、驚きの余り口に出そうとした言葉を呑み込んでしまう。
「『くだらん』ことない」
 忍足は静かに、だが聞き間違えようもないほどはっきりとした口調で繰り返す。
「俺の気持ちを、そない一言で捨てんといて……」
 ひどく哀しそうな眼で見つめるから、跡部の胸に慣れない罪悪感が広がった。
 こんな時に思い知らされる。忍足が、冗談ではなく真実自分のことが好きなのだということを。それに対して戸惑うことはあっても、けして嫌悪を感じてはいない自分の心も。けれど、それだけでは判断材料に乏しい。
 やや呆然と忍足の顔を見続ける跡部に、忍足は苦笑い軽く跡部の頭を撫でる。
「ほな、並んでくるわ」
 そう云って背を向けて去る忍足を、跡部は何かを考えるかのように見つめたまま動かなかった。



「好きです」

 空耳かと思った。あるいは聞き間違いかと。
「……何?」
 だから聞き返した。もう一度、今度は聞き洩らさないように注意して。

「跡部が、――――きみが好きです」

 冷たい向かい風が髪を乱して、逆光の中眼を凝らすけれど、相手の顔は暗すぎて良く判らない。ただ、
「マジで……?」
 そう、聞き返した時、微かに笑ったことを、気配で感じ取る。それが、彼――忍足侑士――という個人を改めて意識した切っ掛けだった。




(ていうか、あいつ、何も云わねぇんだよな)
 あの告白の時も、結局自分とどうなりたいかなんて云わなかった。
(普通、『付き合ってくれ』とか云うもんだろ?)
 これじゃどうしたら良いのか判らないではないか。
(や、別に云って欲しいとかって訳じゃねえけど……)
 判らない。
 忍足侑士という人間が。
 どんなに沢山時間を費やしても理解できない難解な定理のよう。常に頭の隅に存在して、早く解き明かせと嘲笑う。
 あの時、忍足から託された「宿題」。提出期限はあとどれくらいあるのだろう。それすらも読めなくて、無駄に気持ちだけが空回る。
(そもそも俺はどう思っているんだ?)
 ずっと忍足の動向ばかりが気になって、そんな根本的なことに思い至らなかった。
 忍足侑士のこと――――。
 嫌いではない。すぐにシンプルで率直な回答が出る。当たり前だ。嫌いなら友人などにはしていない。たまに一言多い処もあるが、良く気が付くし面倒見も良く、何より頭が良い。一緒に話していて会話に疲れることがないのはポイントが高かった。そういう意味では、嫌いじゃないと云うより好きな相手だと云っても差し支えはない。ただしそれは、「友達」という範疇においての話だ。 自分にとって忍足はそういう存在で、それ以上でも以下でもない。
 けれど、忍足は違うのだと云う。彼の中で、自分はそれ以上なのだと告げる。
(「恋人」になりたい、と、やはりそういうことなのか?)
 結局何度も辿った結論に至って、溜息を吐いた。きっと、そう云うことではないだろうとは思うのだが、何も云わない他者の考えなんて知る術などなく、まして、相手はあの忍足なのだから、そんなセオリー通りのことを願うとも思えない。けれどまったく検討もつかなくて、イライラして落ち着かなかった。
(――――好き、か)
 忍足は何度も何度も、それこそ顔を合わす度に好きだと云ってくる。ふざけるような態度で云うくせに、眼だけはいつも真っ直ぐに向けてくるから、いつものように返せなくて戸惑う。
(まったく面倒なことに巻き込みやがって)
 思わず舌打ち、疲れたように眼を閉じた。浮かぶのは忌々しくも憎たらしいあいつの顔。
(もういい加減にしてくれ)
 やつ当たりじみたことを思いながら、ゆっくりと意識を手放した。




 それは、たまたまだった。
 授業のため、教室から特別棟へ向かっている途中、見慣れたおかっぱ頭が視界に映ったのだ。
(岳人?なんであんなところに居るんだ)
 丁度中庭を突き抜ける道の、繁った樹木で死角になる場所に岳人は座っていた。
 近付いてみると誰かと一緒に居るようで、時折話し声が聞こえる。
 時計を見た。そろそろ予鈴が鳴る。どうするつもりか知らないが、一声掛けた方がいいだろう。
 そう考えて近付くと、まったく予期しなかった人物の顔が見えたので、思わず反射的に近くの茂みに隠れた。
(な、なんであいつまで居んだよっ。つか、何で隠れてんだ俺は!)
 そうは思うが今更出られる訳がない。ひとまず岳人と忍足が立ち去るのを待つしかない。
 跡部は茂みよりも低く上体を落とし、二人に気付かれないよう息を潜めた。すぐそばに蹲る跡部に気付かない二人の会話は続く。
「――――で、どうよ?」
「どうって……何が?」
作品名:ハピネス 作家名:桜井透子