夢のあと
それから一週間の検査で、臨也さんの症状はどうやら、一度眠ると記憶が少しずつ巻き戻っていくものらしいことがわかった。
臨也さんが寝る間は勿論、食事の時間さえ惜しんで病状改善のために奔走している間、僕は何もできなかった。新羅さんも。正確に言うなら僕は置いていかれた子供のように立ちすくんでしまって、そこから動けなくなっていた。
臨也さんの記憶は眠るたびに巻き戻っていく。ならばいつかは、僕と出会う前の記憶にまでさかのぼってしまうだろう。それが、とてつもなく怖かったから。
「・・・あんなに嬉しかったのに、なんでなんだろう」
「・・・帝人くん」
「なんで、この人なんだろう」
掬い上げた髪をシーツの上に散らしながら、未だ開かない赤味がかった瞳を思う。臨也さんはまだ目覚めない。もしかしたら目覚めても、僕のことはもう覚えてないかもしれない。そう考えると寒気がする。震えが、息がうまく、できない。
何度も想像はした。臨也さんが僕を忘れて、僕らはもう一度、真っ白な状態に戻って、交わした言葉も想いも夢の出来事みたいにぼやけていって、それでまた笑えるのか考えた。無理だと思った。臨也さんの記憶の逆行に終わりはない。出会った次の日、僕らはまた出会う。でもそのとき、臨也さんはまた僕を好きになってくれるのかな。
想像して泣いた。だって自信がなかった。だからそう言ったのだ。その一言が今、彼を眠りの底に追いやっている。
「僕、言ったんです」
「・・・・・・・・」
「僕のこと、忘れないで下さいって、言ったんです」
「・・・・・それは、」
当然のことだよ、と諌めてくれる手を振り払って、吼えるように続ける。これが終わったら僕は、大人にならなきゃいけないから、せめて今だけは、そのままの言葉で、夢の中にいる臨也さんへ伝えたいんです。これは僕の懺悔です。許しの言葉を待たないで逃げる僕を、どうか許してください。
「きっと臨也さんは、それをどこかで覚えてるんです。だからこんなに無茶をして、僕、」
「・・・・・帝人くん、」
「僕、臨也さんを、助けたかったんじゃないのかな」
「・・・・・・・・・・」
「僕、自分が怖かったから、あんなこと言ったのかな」
「・・・・・・・・・・」
「・・・きっと、そうなんです。だから僕は、大人にならなくちゃいけない」
一晩中泣きながら僕を抱いて、眠りに飲み込まれる前、臨也さんは僕を好きだと言った。世界で一番、帝人くんが好きだよ。信じてくれる?
はい、と頷いたらまた泣いて、何回でも言うからね、なんて涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
その顔を、僕だけは今も覚えている。―――いや、今になって、こんなに鮮明に思い出してる。
(・・・・・・臨也さん)
いつの間にか震えは止まっていた。その代わりに溢れた涙で、臨也さんの輪郭がぼんやりと空間に溶け始めている。
何度も何度も、好きだと言ってもらった。十分泣いたし、今世紀最大の駄々だって捏ねた。それを律儀に守ろうとした彼の誠意も見た。
だからもう、大丈夫な気がして臨也さんの髪を撫でる。零れ落ちた髪を何度もすくっては感触を確かめた。
夢のような人だった。
馬鹿みたいに好きだった。
できればずっと一緒にいたかった。
『世界で一番、帝人くんが好きだよ』
(・・・・・・ああ、僕、)
(・・・・・・・僕、幸せだった)
夢のような人が今、本当に僕の夢になった。大人になった僕はもう夢を見ないけれど、夢を見ていたことはきっとずっと覚えているだろう。その時にできるだけ、涙でぐしゃぐしゃになった顔も思い出そうと思う。子供だった僕も、幸せだった僕も、全部そこに、置いていくから。