あまいやくそく
「パフェが食べたい」
エーリッヒの一日は、そんな言葉で始まった。
いや、エーリッヒ自身の言葉ではない。
仲間内でそんなことを一番……というか唯一言いそうな、ミハエルの言葉でもない。
いや、確かにその少し前に一番最初にそれを言ったのはミハエルなのだが、今日のそれは、そうではなく、
「俺も、食べたい」
起き抜けに顔を合わせるなり、突然そんなことを言われてエーリッヒは目を瞬く。
"も"の部分に計り知れない力を込めて言われたから、何を指してそう言っているのかはまあ、分かったのだが。
「食べたい」
しつこい。
と、思わないこともなかったが、一度言い出したら貫く頑固さもシュミットの長所であり……まあ、短所でもあるのだが。
ずいと迫る顔があまりにも近くに寄せられすぎるので、両手を間に掲げてエーリッヒは困った声を出した。
「構いませんけど、」
「けど、なんだ」
リーダーとは食べに行けて俺とは何か問題でもあるのか。
迫りくる顔の迫力はなかなかのものだ。
こと、エーリッヒのことになるとシュミットはたいてい冷静さを欠いて子どものようになることがあって、まあ、それはそれで嬉しかったりもするのだけど。
「今日は一日練習でしょう? いつ、行くんですか?」
「……………」
「まさかサボるなんて。しませんよね?」
「…………………」
事の発端はつい昨日。
学校が終わった後の練習が簡単なミーティングだけで切り上げられて、エーリッヒがまとめておくべき書類はすでに整っていて、一人だけ時間が空いたのだった。
忙しそうにしているシュミットやアドルフたちを手伝おうかと思ったのだが、自分でやるからエーリッヒはたまには休んだらいいとヘスラーに言われてしまうと、厚意を無駄にするのも申し訳ない気がする。
疲れているのも事実だったので、部屋に帰ってゆっくり休もうかと伸びをした、そのとき。
「エーリッヒ!」
ぴょんと跳ね飛ぶような身の軽さでミハエルが後ろから駆け寄ってきた。
ミハエルにはレースに集中してもらうため、普段から雑多な仕事は回さないようになっている。
だから、他のメンバーが忙しくしていても、ミハエルはわりと自由の身であることが多いのだ。
「なんですか、ミハエル」
足を止めて微笑んで出迎えると、すでにチームユニフォームから私服に着替えたミハエルは、後ろ手に組んで、にこりと見上げてきた。
白いシャツに深い色のチェックのパンツは丈が多少半端なもので、サスペンダーで釣っているのが幼さを強調しているようで微笑ましい。
「エーリッヒ、今から時間、ある?」
少し斜めに傾けられた首は、ミハエルが自分たちに何か強請るときの常套手段……と言ったら言い方が悪いか。
とにかく、この顔をされるとみんな、弱い。
「ええ、ありますけど……何か?」
「ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「……はい?」
いいからいいから、一緒に来てよ、と無邪気な顔で腕をとって引っ張られた。
着替えもまだなんですけど、と言えば、くるりと方向転換をしたミハエルに、今度はエーリッヒの自室の方にぐいぐいと引っ張られた。
「1分で着替えてきてね、2分後には出発!」
ひどく楽しそうなミハエルが指を立てて、困ってしまったけれども困ったままでいたところで何がどうなるわけでもない。
我らがリーダーのご要望には、とにかく迅速にお応えするのが一番だというのも、メンバーのうちに染み着いている行動原理でもある。
きっかり1分、とは行かなかったが、正味3分で出発まではこぎ着けて、再びミハエルに腕をとられて歩き出した。
そうして連れて行かれたのは街角のカフェだった。
お茶を飲むのはたいてい普段は自室や宿舎で、わざわざ外に出るなどということの少ないミハエルが、あえて外に出たいというからエーリッヒは少し驚いた。
うん、紅茶は別にいいんだけどね、と、エーリッヒの不思議顔を読んでミハエルが笑った。
「パフェ、」
「はい?」
「食べたいんだ」
学校ですっごくおいしいところがあるって聞いて。
どんなものか試してみたくって。
わりとどんなことにも好奇心旺盛なのは、ミハエルの長所だろう。
そういう事情であれば、まあ、そうでなくとも、つき合わないいわれはない。
そこは、濃い褐色が基調の、落ち着いた色調で整えられた建物で、雰囲気を一瞥しただけで確かによい店なのだろうと推測できる。
丸いテーブルの上にメニューを広げて、頭を寄せあって眺める。
「どれですか?」
「えっとね、ああ、これ!」
小さな指が指し示したのはなかなの大きなサイズのチョコレートパフェで、
「大きいですね、結構」
「うん、そう思ったから来てもらったの。半分こしよう」
「はい」
というわけで、夕食の時間をいくらかすぎて帰宅した自分たちを、シュミットは機嫌悪く出迎えた。
「どこかに出かけるときはきちんと誰かに伝えておいてください」
「エーリッヒが一緒だからいいかと思って」
邪気なく答えるミハエルに、それ以上シュミットが食い下がる訳もなく、
「エーリッヒ、」
「…………すみません」
向いた矛先に困って小さく首をすくめていると、シュミットの後ろで聞いていたアドルフが苦笑いをした。
「シュミットは心配性すぎるんだ」
別に何事もなかったんだからいいだろう、そういう援護をくれたのだが、
「ダメだ、報告連絡は組織の基本だ」
「………また堅苦しいことを」
「何か言ったか」
「いや?」
怒らせるのも絡まれるのも面倒だと重々承知しているアドルフは、それ以上の援護を諦めたらしい。
シュミットが再びこちらに向き直ったところで、エーリッヒに向けて片手をあげた。
すまん、と。
いいえ、と目だけで答えていると、
「どこを見ている、エーリッヒ」
不機嫌をかえって増したらしい顔がずいと迫ってきた。
ああ、どうしようか、と、シュミットを宥める方策をあれこれ頭の中に思い浮かべる。
こんなことは日常茶飯事で、だから瞬時に浮かぶいくつものそれから、もっともよさそうなもの吟味しようと思った、そのとき。
「……もういいじゃない、シュミット」
つまらなさそうにしたミハエルの手が、二人の間に入る。
うーんと声に出して思い切り伸びをして、それからふうと溜息を吐いた。
「しかしリーダー、」
「そんなことより僕お腹空いたから、早くご飯にしようよ」
今さっき、二人がかりではあったがそれなりの大きさのパフェを平らげてきたというのにそんなことを言って、ミハエルがすたすたとテーブルに向かう。
そうすると、シュミットにも反論の余地はなく、渋々ではあったが席に着いたのだ。