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立ち止まらずにすすんでゆけ

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冷たい水で洗っただけの顔を、少しでも醒まそうと一つたたく。
「おうタケシ、帰ったら味噌汁できてるからな」
台所からいせいよくかかった声に、おー、と片手を挙げて玄関を出れば、近所の家並みはまだ寝静まった気配。
春近い朝の大気は少し湿った匂いがし、せいせいするように冷たかった。


まだ早い時刻の並盛町。
住宅街の塀で仕切られた四角い道の上に、かすかに朝もやが漂っている。
頭上の遠くに、宇宙の闇を映した紺色の空。
地平へ下りるにつれてばら色に染まり、朝日を迎える準備をしている。
なじんだ野球部のジャージで身を包んだ山本は、まだらのもやをかきわけて、家と家の間を走っていた。日課のジョギングだ。
フェンスからはみだしたツツジの枝をよけ、湿った落ち葉をランニングシューズの底で踏む。
とっ、とっ、と軽い足音。混じるようにして遠くでバイクのエンジン音が聞こえる。
なんの音かはわからない、大きなダイナモの回転するような鈍い音も。山本はぼんやりと、そんな音をさせられるくらい巨大なダイナモを頭の片隅に浮かべる。世界を動かすダイナモ。ゆっくりとまわり始めるところ。
四月から始まる生活のことは考えていない。新しい暮らし。新しい出会い。新しい場所。それらがいかに輝かしい希望に満ちているかなんて、見え透いたきれいごとには興味がない。足の裏から響くリズムと呼吸の音、それが頭の中のぜんぶだ。


角を曲がって足取りが緩んだ。


ゆっくりスピードが落ちて――立ち止まったのは、住宅街の一角にたつ、二階建ての門の前。表札には「沢田」としるされている。
二階の窓を見上げる。暗い。人の気配がない。
特別なことではない、並びの窓はどれも寝静まっている。まだ時間が早いのだから当然だと、四日前までなら思えた。それほどにその窓を見上げるのは山本の日課だった。でも今は。
山本は汗のにじんだ顔をあげて、五分ばかり、朝の風に吹かれながら、薄暗い真っ直ぐに伸びた道の隅にたたずんでいた。

あそこに、もう、ツナはいない。

中学からの付き合いだった親友は三日前、旅立った。
居所は知っている。住所は教えてもらった。けれど教えてくれたのはツナではなかった。ツナが告げたのはもっと全然ちがう言葉だった。
――来ちゃいけない。
かれはそう言った。

――来ちゃいけない。
山本には来てほしくない。
オレの運命を山本にまで負わせたくない。
たいせつだから。
山本が日本にいる、そうおもえたら、オレは山本の世界を守るためにがんばれる。


涙のいっぱいたまった目を細めてツナはわらった。淡く茶色をつけたピー玉みたいなツナの目の色合いが好きで、どれだけでものぞきこんでいられた。その瞳が山本を見上げて、さまざまな感情を浮かべるのを見ていると、心臓のあたりがあたたかくなった。なのにツナは瞳を伏せて、二人の間で通じていたはずの温かいなにかを断ち切った。ひどいことを言った。


山本まで巻き込むなんて、そんな理由、オレにはないから。


ツナが背負っている面倒ごとについては徐々に飲み込んでいた。いつかツナがあれほど嫌がっている未来を選ぶことになり、山本も選択を求められたなら、彼か野球かいずれ自分の手で切り捨てなくてはならないのだろうと理解していた。どちらを選ぶことになるのだろう、現実感が持てないままにぼんやりと考えた夜ならいくつもある。
なのに。
選ばせてさえくれないなんて。
曖昧な夢想が現実になった瞬間、初めて、わかった。ほしいものはなんなのか。


静まり返ったツナの窓から目を引きはがす。こぶしを見下ろす。いつのまにこんなにかたく握り締めていたのだろう、不思議な気持ちで眺めた。
三日前、見送りに行った空港で、この手でかれの指をとった。あのやかましい獄寺が目をそらしてくれたのは、たむけのつもりだったのか。
ツナは拒まなかった。人目を気にするツナが、山本に手をとられたまま、身じろぎもしないで山本を見上げていた。くちびるを強く引き締めているのが、かえって知らない場所に放り出された子どもみたいでいたましく、責める言葉なんか口にできなかった。手を離したくないなと笑ったら、やっぱり迷子の子どもがするようにぎこちなく微笑んだ。いかにもただ相槌のように。そんなふうに笑うツナを見たくなくて――そんなふうに笑われる自分を見たくなくて、山本は手を離した。開いた指の間から、少しためらってツナの手のぬくもりがそっと抜けた、そのあとの寒々しさに気づかないふりをした。そうしてできるだけ落ち着いて告げた。

ツナのために、ここにいる。
ツナが自分を見失ったら、オレがいる。ここに。
沢田綱吉の、いちばん近くにいるのは、オレだっておもってる。


――親友らしい、後腐れのないきれいな言葉。
それがかれの望みだと、知っていたから。
ほかになにが言えた?
親友だなんてきれいな位置に、きれいにおさめられた男が、それでもかれの人生に消えないあとを残すために、ほかになにができた?
もし彼が。
なにもかも捨てて一緒に来てほしいと、ほかのなんのためでもなく自分のために生きてほしいと言ったのなら。
否、二つに分かれた未来の、どちらか一方を選んでくれとそう差し出しただけだったとしても。
だとしたら山本は今ごろ一人でからっぽの窓の前になどいなかった。
一緒に生きるためには、たとえばこの胸の熱を愛と名づけなくてはならないのだと、そう言われたのならいくらでもその名を選んだ、同じ人生を生きる権利が恋人どうしにしか与えられないと言うのなら、ためらいなく恋と呼んだ。
だって名前なんかどうでもいい、この気持ちを言葉で言い表す方法なんかないのだから。ただ彼がいとおしくて大切で、みずからのすべてが彼に結びついていると感じていた。かれのそばでなら、のびのびと息をすることができた。ツナのほうが山本へ寄せる憧れは、山本が持つ切実さには及びもつかない可愛らしいものかもしれなかったけれど、だとしてもそれでも、それでも林檎が枝から離れるように、海が満ち引くように渡り鳥が南を指すように、彼へ落ちつづけることは山本にとって自然だった。彼がいたから山本の過去は意味を持った。彼がいるなら未来にも意味を見出せた。
なのに彼は目を伏せた。
山本とともにある理由を自分は持たないと言った。そしてドアを閉めた。
かれの優しさだと知っている、彼なりに考えた山本の幸福だったのだとわかっている。山本がツナのために山本の未来を捨てることを恐れたのだと。
ああ。その優しさをめちゃめちゃにたたき壊してやりたい。そのためにこの右腕がダメになるならなればいい。ツナの細い肩をつかんで揺すぶってやりたい、本心を。ツナ、本心を聞かせてくれ。ほんのわずかでもオレを求めてくれるならそう言ってくれ。そうしたら、オレは。