かきつばた
リュナンは今、人には言えない何か大きな不安を抱いているのではないかと、ルックは思った。
再び、沈黙の時間が流れた。
なかなか言い出せないリュナン。
リュナンの言葉を待つルック。
どれだけの時間が過ぎただろうか。
沈黙を破ったのはルックだった。
「泣いたら?」
「…」
ルックの言葉に、リュナンは無言で振り返った。
振り返ったリュナンの顔を見て、ルックは微かに顔をしかめた。
ルックが予想していた以上に、リュナンは泣きそうな顔をしていた。
「……ははっ。ルックにはかなわないや………」
その力無い笑い声は、時を置かずに鳴咽に変わった。
ルックは小さく息をついた。
そしてリュナンの所まで歩み寄ると、そっと彼の肩に両手を置いた。
肩に乗った微かな温もり。
リュナンは、その温もりをくれた少年の法衣を掴み、声を殺して泣いた。
自分の胸でただ静かに泣き続ける少年の背を、ルックは2、3度ゆっくり撫でた。
リュナンの涙の理由に、ルックは思い当たる事がある。
それ故に、ルックもリュナンにどう声をかけて良いか分からなかった。
ただただ、時間だけが過ぎていった。
抱き寄せる腕から伝わって来る微かな震えと温もり。
それらが意味するものに対し、ルックは悔しさと悲しさが入り混じった瞳をスッと閉じた。
――神は…星は…こんな形の祝福があるものなのか――
ルックが心の中でそんな疑問を抱いた時、自分の法衣を掴んでいたリュナンの手がスッと離れた。
ルックも抱き寄せる手を静かに降ろす。
「……108星の祝福って……何なんだろうね……」
涙を拭いながら、リュナンはぽつりとそう言った。
「……」
その問いに、ルックはしばし口を閉ざした。
答えはあった。
ずっと前から知っていた。
だが、108星の祝福が降り、グレミオが生き返った瞬間の皆の歓喜の声、そして本当に嬉しそうなリュナンの顔を見たら、ルックは口を閉ざすしかなかった。
そんなルックに、リュナンは寂しげな顔を僅かな諦めを帯びた瞳とで、ゆっくりと口を開いた。
「グレミオが生き返ったのは確かに嬉しい。
だけど…上手く言えないけど、僕の中の何かがそれを否定するんだ。
グレミオは生き返った。だけど、そんな彼は否定される。
グレミオがいつも通りに微笑む度に、何かが無くなっていくんだ」
そこまで言うと、リュナンは1度言葉を切った。
そして、ゆっくりと息をひとつつき、言葉を継いだ。
「グレミオは…生き返ったんじゃなくて、何かに喚ばれたんじゃないかな? …って、思うんだ」
「リュナン…」
ルックは、ただリュナンの名しか言う事が出来なかった。
漠然とではあるが、リュナンは真実を感じ取っていた。
その、あまりにも残酷な真実を前にしても、人前では決して涙を見せる事のないリュナン。
解放軍の盟主であるが故に許されない涙。
もしも盟主でなかったら、もしも小さな子供だったら、彼は…泣く事を許されたのだろうか?
全てを知っていたのに隠していた、臆病な自分。
今ここで知っている事を全て話しても、彼はきっと微笑みながら許してしまうだろう。
そう…全てを押し殺して。
「リュナン…」
ルックは、もう1度リュナンの名を呼んだ。
名を呼ぶことで彼が自分を見てくれたら、自分の知っている事を話そうと思った。
大切な友だからこそ、決意となるものが欲しかった。
そんなルックの心が伝わったのか、リュナンはゆっくりとルックに向き直った。
想像した通りの、悲しみを帯びたやさしい瞳。
ルックは、大きく息をつくと、意を決して口を開いた。
「108星の祝福はね、星主の望みじゃなくて宿星の望みが現実となるんだ」
「宿星の…?」
ルックの言葉に、リュナンは微かな驚きと共に言葉を漏らした。
ルックは小さく頷き、再び語り始める。
「宿星は、争いを自分たちが望む方向に終わらせようとするらしいよ。
だからきっと、立て続けに大切な人を失った君が、盟主であることを棄てて解放軍を導く事を止めてしまうかもしれない事を恐れたんだ。
身近な人が甦れば、盟主はきっと希望を捨てない。
だけど、いくら108星でも、ソウルイーターに掠め取られた魂を喚び寄せる事は出来ない。
だから、グレミオという複製を作り出すしかなかった」
そこまで言って、ルックは1度言葉を切った。
自分の言葉をただ静かに聞いているリュナン。
だが、その表情がどんどんと固くなっていく。
そんなリュナンをしっかりと見つめながら、ルックは更に続く言葉を紡いだ。
「宿星は門の紋章の力を借りて、命を落とす直前のグレミオを喚び寄せた。
今、グレミオの命は過去から喚び寄せたものと、ソウルイーターの中で眠るものと、2つ存在している。それは、あってはならない事なんだ。いずれは……」
それ以上、ルックは言葉を続けることが出来なかった。
本来、存在する筈の無い命。
それは108星の祝福がもたらしたもの。
盟主に、この戦争を勝利に導かせる為に。
ならば、この戦争が終わった時、本来存在してはならない命は……。
「あ…あはは……」
突然のリュナンの乾いた笑い声に、ルックはビクッと一瞬体を強張らせた。
乾いた笑い声は長くは続かなかった。
代わりに、涙の混ざった声がルックの耳に届いた。
「馬鹿だよな、僕…。僕がそう願ったのに、それも忘れて勝手に泣いて悲しんで…。
だから、宿星も望んだ勝利を心配したんだ。自分で望んだ結果にすら怯えて。
僕はなんて弱いんだろう…」
「…」
ルックは、堪えきれなくなって顔を背けた。
弱い? たったひとつ、好き勝手な願いを心の中にだけ住まわせた事が、本当に弱いのだろうか?
顔を背け、ぐっ…と拳を握りしめるルック。
そんなルックを、今度はリュナンが優しく抱き寄せた。
「リュナン…」
抱き寄せられた事に小さく驚き、そんな表情のままリュナンを見る。
リュナンは微笑んでいた。
その温かくも力強い微笑みは、彼がかつて家族に囲まれて幸せの中にあった頃の笑顔だった。
ルックも、過去に1度、魔術師の塔でその笑顔を見た事があった。
「ありがとう、ルック。君のおかげでやっと心の整理がついたよ。
グレミオは生き返ってはいない…僕は、それを受け入れる事や認めるのが恐かった。
だけど、これは僕が望んだ事。受け入れなければならないんだ」
「まったく。君は呆れるくらいに前向きだね」
やれやれ…と、いった口調で言いながら、ルックは瞳を閉じて微笑んだ。
リュナンのその笑顔が本心からなのか…それは分からない。
だが、例え本心じゃなかったとしても、その笑顔を見る事でホッと胸を撫で下ろせただけでも、救われた気分だった。
リュナンは、ゆっくりと抱き寄せる腕を解いた。
そして、空を仰ぎ見る。
「でも、折角望みを叶えて貰ったんだし、この夢が続いている間は夢を見させて貰おうかな」
そう言いながら、瞳を閉じて深く深呼吸をする。
それは、いつ訪れるか分からない永別への、分かっている結末への、ほんの一握りの挑戦とも思えた。
「…そうだね」
瞳を閉じて微笑んだまま、ルックはぽつりと答えた。
そして、ルックも空を仰ぎ見た。
どこまでも続く澄んだ淡青。
そのやわらかな色に、ルックは願った。