かきつばた
本拠地の屋上から、眼下に広がる湖をぼんやりと眺めながら、リュナンは小さく息をついた。
「またこんな所に居るのかい?」
「うわっ!!」
突然、真横から声がして、リュナンは驚きのあまり声を上げ、そのままよろめいた。
声の主はルックだった。
「ル…ルック!! いきなり真横に転移して来ないでよ!! まったく…」
「惜しかったな。もう少しで盟主の尻餅姿が拝めると思ったのに」
「惜しくないっ!!!」
今までの憂いは何処へやら。
リュナンはルックのイタズラに腹を立てる。
そんなリュナンを見て、ルックは小さく溜息をついた。
「…また、あいつの事を考えてたのかい?」
「………」
真剣な顔で聞いてくるルックに、リュナンは怒るのを止めた。
盟主とか、真の紋章の継承者とか、将軍の息子とか、そういった肩書きなどを一切気にせずに、いつでもリュナンを1人の少年として見てくれる、只1人の人物がこのルックだった。
だからなのか、リュナンもルックの事が気に入っていたし、ルックもまた、自分を1人の少年として見てくれるリュナンを気に入っていた。
口に出さずともリュナンとルックは、いつしか友と呼び合う仲になっていた。
「当たりだけどハズレ」
自分の事を気にかけてくれるルックに、リュナンは小さな笑とともに答えた。
「……は?」
言っている意味が分からず、ルックは呆れた顔でリュナンを見る。
リュナンはくすくすと笑いながら、言葉を継いだ。
「信じる勇気が奇跡に変わる…って、テッドがそう言ってたの、ルックも知ってるよね。
だからちょっと願ってみたんだ。グレミオが生き返るように…って」
「……君、馬鹿じゃないの?」
あまりにも現実離れした願いに、ルックは呆れかえってそう答える。
「あはは……馬鹿は酷いなぁ」
リュナンも笑ってそう答える。
…が、その笑顔もすぐに消えた。
「………無茶苦茶な事を願ってるって、分かってるよ。
勝手に逝ってしまった親友への当て付けかもしれない。
だけど、そんな絵空事でも考えていないとどうにかなってしまいそうだし。
別に、生き返らなくてもいいんだ。どんな形でもいいからグレミオと話しをしてみたい。
………そう願うのも、やっぱり馬鹿なのかな?」
「………」
悲しい程に切実に願うリュナンに、ルックは言葉が見つからなかった。
グレミオがどんな死に方をしたか知っている分だけ、悲しかった。
もしかしたら、リュナンはまだ心のどこかでグレミオは生きているのでは…と、思っているのではないのだろうか?
手の届かない所で[消えてしまった]彼を、まだどこかで無意識のうちに探しているのではないのか?
「………好きにすれば…」
それだけの言葉を紡ぎ出すので精一杯だった。
「うん。ありがとう」
ルックの言葉に、リュナンは微笑んで答えた。
「心配しなくていいよ。
願い事は願い続けるけど、だからと言って僕は自分を見失うつもりは無いから」
そう言って、リュナンは空を仰ぎ見た。
「あーあ、大空に向かって決意を新たにしようと思ったのに」
残念そうに呟くリュナン。
ルックも空を見上げる。
「見事に曇ってるね。誰かさんの心の中を物語ってるみたいだ」
「…誰かさんって誰?」
ルックに向き直って、ムッとした顔で問うリュナン。
そんなリュナンに、ルックはイタズラっぽく微笑んだ。
「君が今、思い描いた人物って事にしておこうか?」
「なっ…人が折角決意を新たにって思っ………」
リュナンの言葉を遮るかのように、上空に広がる雨雲からぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
落ちてきたかと思うと、あっと言う間に辺り一面が水浸しになった。
慌てて屋内に駆け込んだふたりだったが、突然の降雨に衣服はかなり水を吸い込んでしまった。
「……ふぅ。突然降り出すなんて」
壁に凭れかかり、窓から雨を眺めながらリュナンは大きく溜息をついた。
そんなリュナンの横で、ルックは落ち着いて衣服の濡れ具合を確かめながらこう言った。
「良いんじゃない? 嫌な事もこれで流れていっただろうし」
「………」
意外な言葉に、リュナンは驚いてルックを見る。
「…なに?」
「あ…いや」
どもって言葉を返しながら、リュナンはルックの言葉の意味を理解した。
「曇り空と雨って、そういう事かぁ」
呟いて、微笑むリュナン。
ルックも、瞳を閉じてクスッと笑みをこぼした。
曇り空の様な心は憂い…だけど、決意の雨でそれを洗い流す。
それは、正に今のリュナンを物語っていた。
そして、一緒に雨に濡れているルックに気づいた。
転移してしまえば雨に濡れる事も無かったのに、ルックはリュナンと一緒に屋内へ駆け込んだのだ。
ルックのそういったこっそりとした優しさに、リュナンは改めて感謝した。
それから数ヶ月後。
リュナンの願いは、108星の祝福による天英星の蘇生という形で現実となった。
嬉しいの一言では言い表せないその奇跡に、リュナンは時間さえあれば、大した用も無いのにグレミオの様子を見に、彼の部屋を訪ねた。
だが、それも最初の1日だけだった。
翌日には急に言いようの無い不安を感じ始めた。
グレミオの顔を見れば不安が消えるのではないかと、不安を取り除きたい一心で、リュナンはグレミオの部屋を訪れ続けた。
そして、今日も…。
訪ねてきたリュナンに、グレミオは笑顔で答えた。
「いらっしゃいませ、坊ちゃん。おや、浮かない顔ですね、どうしましたか?」
いつものやさしい笑顔。
だが、その笑顔を見ても、不安は消えるどころか増々大きくなっていく。
そんな不安に満ちた表情をグレミオに見せたくなく、リュナンは慌てて顔を逸らした。
「な…な…何でもない!」
それだけ言うと、リュナンは慌ててその場を走り去ってしまった。
慌てて走り去ったせいで、閉めたつもりだったがドアが開いてしまっている。
「…」
リュナンが去った後、グレミオを首を傾げながら半開きのドアをしばし見つめ、やがてドアを静かに閉めた。
リュナンは通路を一気に走り抜け、大広間に向かった。
約束の石版を…石版に刻まれている名を見たかった。
「!」
約束の石版の前まで来て、リュナンは石版の前に立っているルックを見つけた。
リュナンに気付き、ルックは微かに顔を上げた。
「ルック、ちょっと来て!」
考えるより先にルックの手を掴むと、そのまま駆け出した。
ルックは掴まれた手を拒まなかった。
先程の僅かな時間にリュナンと向き合った時、彼の表情は明らかに怯えていた。
それが気にかかり、ルックはリュナンに手を引かれるまま、屋上に来た。
屋上に来ると、リュナンはやっとルックの手を離し、塀まで歩み寄ると、塀に手をついて湖面を見下ろした。
そのまま暫くの間、時間だけが過ぎていった。
心地良い程度に水気を含む風が、2人の髪と衣服を揺らす。
「ルック…ごめん。こんな所まで連れて来ちゃって…」
湖面を見つめたまま、リュナンはルックに詫びた。
そんなリュナンに、ルックは小さな溜息をついた。
「詫びるんだったら、何があったのか話したらどう?」
あえて平静を装ってそう言った。
リュナンとの付き合いもそろそろ2年になる。
だからなのか、表情と行動でだいたいの察しはつく。