願い事、ひとつ
平和島静雄を一言で言い表すのならば、それは「最強の歩兵」になるだろう。
戦争も悪化の一途をたどるそのころになると、その名はすでに軍部に知れ渡っていた。また戦地から戻ったらしい、と聞けば、次はどこへやられるかと予測が飛び回り、そうしてまた前線へ飛ばされたらしいとなれば、奴もようやく死ぬかと囁かれて。
それでも、平和島静雄は周囲の予測を裏切って、やっぱりまた戻ってくる。
何度でも何度でも、戻ってくる。
静雄自身、自分が一体何度死地をくぐりぬけてきたのかが解らなくなってきていた。自分は確かに激戦区と言われるところへ飛ばされるのに、どうして生き残ってしまうのだろうと、そんなことを考えるようになっていた。たぶん、一言で言うならば、静雄は疲れていたのだ。途切れない銃弾にも、耳をつく爆音の嵐にも、消えてゆく隣のぬくもりや、響き渡る悲鳴を縫うように呼吸する、そのことに。
生きると、言うことに。
疲れていたのかもしれない。
その日も、午前中に戦地から戻ったばかりの静雄は、上官に今日一日は体を休めるようにと告げられていた。だからと言って、本当の意味で休める場所など軍基地の中にはありはしない。明日になれば、またどこの隊が静雄を引き取るかについてもめることになるのだろう。それを思うとげんなりする。
日当たりの良い中庭の隅、日陰になる場所を見繕って座り込み、静雄は深く息をついた。
蝉の声、風の音、木々のざわめき。
そう言う、当たり前のものを覚えていたくて目を閉じる。
戦場では思い出せない、「日常」の音を。
「平和島静雄さんですか」
声がかけられたのは、その時だった。
軍部において、階級をつけずに名前のみで呼ばれることは、気の知れた友人でもない限りまずないと言っていい。それなのに敢えてそういう呼び方をするということは、軍に入ったばかりで階級を呼び慣れていない人間か、もしくは、敢えて親しみを抱かせるためにそう呼んだか、どちらかではないだろうか。
そう考えて静雄は目を開けた。
目の前に、静かな光をたたえた一対の目が、ただまっすぐに、静雄を見つめていた。
今も静雄は後悔する。
その時目を開けなかったらもしかして、こんなことにはならなかったのではないか、などと、あり得ないことを考えてはあの日を振り返る。
それは静雄の生涯でただ一つ、たった一つの、敗北だった。
竜ヶ峰帝人。
その静かな瞳の主を、情景と、愛しさと、同じだけの懇願を込めて呼ぶ。
竜ヶ峰、帝人。
「私の隊にきませんか」
彼が発した言葉は、ただそれだけで、酷く静雄を混乱させた。
まるでちょっと遊びに行きませんかとでもいうようなその口調で。静かな凪いだ海のような目でなんてことを言うのかと、静雄は息をのんで。
そうして、早鐘を打つ心臓を鎮めるように手を握りしめ、渇いたのどを震わせて、ようやく答えた言葉はかすれていた。
「どういう、意味だ」
今、この少年は「私の隊」と言った。自分を「私」と呼ぶのも、見るからに静雄よりずいぶん年下の彼が自分の隊を持っているという事実からも、士官学校出のエリートであることが予測される。そんな人間が、怪物だと忌み嫌われる静雄に声をかける理由が解らなかった。
士官学校出のエリートならば、わざわざ静雄のような火種を引き取らなくても、ただ隊を動かし指示をしているだけである程度の階級まで自動で上がっていくはずだ。どうして自分のような人間を誘うのか、目で問えば、彼は一つ息をついて、ああ、と。
「申し遅れました。私は竜ヶ峰帝人です、第七小隊の小隊長をしています」
にっこりとほほ笑んで言われた言葉は、まるで軍部に似つかわしくないほど和やかだった。静雄も釣られるように頬をひきつらせ、それから一つ咳払いを返す。
「ならば、上官だな。小隊長殿が俺に一体何の用だ」
言葉遣いがなっていないと言われるのを覚悟で、静雄は敢えて砕けた調子で返した。相手は、自分を階級で呼ばなかったのだから、おそらく、堅苦しく接してほしくないはずだ。
帝人は目を2・3度瞬かせ、小さく首をかしげる。
「・・・私の隊にきませんか、と言ったと思ったんですが」
言ってませんでしたか?
大真面目に返されて、静雄は今度こそ絶句するしかなかった。
ああそうだ、一番最初にそう言われた、と叫びたいのをこらえて、息をのみ込む。確かに要求が先にあったのだから、何の用だはおかしかった。静かに反省する。だが、それとこれとはまた別で。
「静雄さん?」
どうかしましたか、とさらに首をかしげた彼に、静雄は、なんと反応すればいいのかとひとしきり悩んだ。これはあれか、天然なのか、それともわざとなのかと考えたが、どちらにしても静雄に対処しきれる相手ではない。
「奇特なことを言うな、あんた」
いろいろこもごもの言葉を、単純な静雄にしては珍しく、色々と考えた末に飲み込んで、代わりに出てきたのはそんな呆れたような言葉だった。
「俺がなんて言われているか、知ってるんだろ?」
ため息交じりの答えに、帝人が頬を緩める。
「はい、最強の歩兵と。生きて帰れぬ戦地なし、無敗の兵士と」
「戯言だぜ」
最初のころこそ、そう言われた静雄を是非と欲しがった小隊は多かった。だが、行くところ行くところ壊滅して静雄だけが戻ってくる。そうなると今度は、あいつが味方を殺しているんじゃないかと、あらぬ噂をたてられたりもした。それがただの噂でしかないことを、上官も平の兵士たちも、そしてそう噂した本人でさえ知っていただろうけれど、それでもそんな陰口をたたかずにはいられない位、静雄には悪運がついて回る。
それを忌々しく思っているのは、誰よりも静雄本人で。
「いいか、よく聞け」
相手は上官だが、こうして面と向かっているとただの子供にしか見えない。その子供に、静雄は諭すように、極力声を荒げないよう気をつけながら、静かに語った。
「俺を、最強だとかなんだとかいうやつが居るのは知ってるが、そうじゃねえ。全然、そんなんじゃねえ。俺はな、死神なんだよ。俺が行く先じゃ皆死ぬ。皆だ。例外はねえ。俺が行く隊はな、全部が全部全滅だ。繰り返して言うが、例外はねえんだ。・・・あんたも死ぬ。それでも俺が欲しいってのか?」
静雄としては精いっぱいの脅し文句の、はずだった。
けれども帝人は、そんなことをいう静雄の言葉をしっかりと聞いて、問われた言葉に即座に頷いた。
「はい。欲しいです」
きっぱりと、あっさりと。
ほんの少しの迷いさえ無いその言葉に、静雄は息を呑んだ。静雄に、自分のところに来いだなんて声をかける人間は、今では全くいない。それは、静雄の言ったことがすべて事実だからだ。
1度や2度ならば、不運だったで済ませることができたかもしれない。
けれども3度4度、それ以上と続く「部隊壊滅、生存者1名」の報に、軍部そのものが今や恐怖を抱いている。そうして返ってくるのは、いつだって静雄だった。