わたしはわたし以外の誰にもなることはできない。
唇から零れ落ちた吐息は白く濁って消えている。
ああ、寒いと、呟いた言葉は音に成っただろうか。もうすっかり暮れ始めた空に負けたように旧校舎にある部室は吹き荒ぶ風に小さな音を立てている。
ジェットコースターだって地震だってきっとこうはいかないというくらいの揺れに、視覚と聴覚が混ざり合って、世界が歪んで戻ったそのあとに、残されたのは何だろうか。叫んだような気もするし、遠くに誰かの声を聞いたような気もしていた。
けれどまるで夢か幻でも見たというように、気付いたときにはわたしはただ静まり返った見慣れた部室の床に腰を落としていた。ぶるりと身体を襲った寒気だけがひどく神経を震わせている。
「……なに、何なの? 地震?」
わたしの手から転がり落ちていた本がばさばさと派手な音を響かせた。苛立ったように落ちてくる耳慣れない声が、渇いた色を帯びている。ひゅうと咽喉を走るように息が音を立てていた。恐る恐ると見上げたその先で、長い艶やかな黒髪が肩筋から落ちて揺れている。
「ねえ、ジョンは……?」
わたしの知っている名前とも呼び方とも違う愛称で綺麗な彼女―涼宮ハルヒ、と彼が何度か口にした名で名乗った―の唇が、さっきまでとは違うひとのように言葉を紡いでいる。けれどきっと誰もが同じようなものだっただろう。どうして、と、口は簡単に動かない。
それはまるで化かされたのか魔法にかけられたのか、なんてあっけなさで。狭い部屋から、彼はわたしたちが目を伏せたほんの僅かの間で姿を消していたのだ。
「……古泉くん、出ていったの、見た?」
「いえ、扉は閉まったままですし……僕たちの間をあの一瞬で抜けるのは不可能に近いのでは、」
こくり、と、僅かに吐息混じりの男の子の声が部室の空気を揺らすように咽喉を鳴らした。ひっ、なんて、思わず洩れたみたいな声を先輩がてのひらに隠している。
重い腰を引き摺るように立ち上がって、拾い上げた本はわたしの手のなかでずっしりと重さを持っているようだった。ゆっくりと立ち上がったその視界に真っ先に飛び込んでくるパソコンは、まるで初めから起動もしていなかったなんて顔で静まり返っている。
「あ、パソコン……」
「え?」
「……電源、入っていません」
目の前で唐突に起動した画面上のメッセージの全てまでを追えたわけでもない。
その事態を、理解など出来るわけもなかった。けれど確かにそこにわたしたちの名前が記されたことと、彼の指先がキーを押したていたのを覚えている。
放課後の静まり返った部室に突然、彼がこの季節には少しばかり寒そうな体操着姿の二人とそれから――わたしでも名前と顔が一致するくらいには有名な――一学年上の先輩を引き連れてやってきたのは、ついさっきの話だった。数日前に唐突にやってきた彼の目的が何だったのかも、どうしてここに彼らを引き連れてやってきたのかもわたしにはわからなかった。
入部届が足許に落ちている。
古泉くん――という名だとは後で改めて聞いたのだけれど―が指先でそっと拾い上げてくれたそれを見据えればそこには確かに、あのひとの付けた折り目が残っているのに、どういうわけだろうか。
恐る恐ると取り囲むように顔を見合わせてから、パソコンの電源を付けてみたけれど、似たようなメッセージはなにひとつ流れやしなかった。備え付けのデスクトップは相変わらず、時代遅れなくらいのゆっくりとしたスピードで、見慣れた画面が開かれていく。
わたしたちはまるで迷子のように、小さな部屋のなかに取り残されていたのだ。
「……ほんとうに異世界人だったのかしら、お礼もなしにいなくなるなんて!」
呆然と立ち尽くした意識を拾い上げたのは涼宮さんの少しばかり取り繕ったみたいな声で、その言葉に目を白黒させているわたしに肩を竦めてから、ゆっくりととはいかない速度で、彼の話をしてくれた。
それは、宇宙人に未来人に超能力者なんて、ちょっとした冗談のような話だった。
けれど確かに数日前、この部室を初めて訪れた時の彼はわたしに向かってそう問いかけていた。宇宙人ではないのかって、そういう意味だったのかと、やっとその時になってわたしは彼の眼差しの意味を知ったのだ。
浮かれていたのか、それとも動揺していたのか。わたしのほうがそんなことを深く考えるような余裕もなかっただけの話で、もしかしたらもっとわたしにも聞ける話はあったのかもしれないと、今ならば思わなくもないのだけれど。ふわりと落ちてくる溜息は何処か、夢のような暖かさも伴っていた。
「……そう」
「えっと、その、でも、どうして帰れたの?」
「鍵が揃ったということかもしれませんね、そうなると正解は並行世界のほうでしょうか……とはいえ、帰れたかどうかも正直なところわかりませんが」
推測は推測にしか過ぎないのだろう。
わたしたちは誰もが事態の把握にも精一杯で、きっと、それも充分ではないのだ。困ったように肩を竦めた古泉くんが指先でくしゃりと髪をかき混ぜて、朝比奈先輩はパイプ椅子に腰をおろしている。
それでも、軽やかにパソコンの電源を落とした涼宮さんの表情だけは次第に、まるで愉しい何かを抑えきれないような笑みを浮かべてわたしを見返してきた。
わたしはそっと、頭の片隅でわたしではないわたしについてばかり考えを巡らせていた。そのことを、気付いていたのだろうか。宇宙人でなんでもできて、それから、それから彼はなんと言っていただろう。一足飛びになくなったような気がした距離は幻だったのだろうか。それは当然といえば当然なのかもしれないけれど、わたしにとってみればまるで奇跡のような出来事だったのだ。
「と、いうことは、この世界にはジョンとは別の……元のジョンがいるってことよね」
「そうなりますかね?」
「あ、あたしは先日、初めてお会いしました」
いつでも廊下の片隅に、窓越しのグラウンドに。彼の姿を探してばかりいたのだ。此処を訪れた彼の眼がわたしを通して誰かを探していたのを知っている。
あの、春先の図書館で少しだけ交わした言葉を彼はもう覚えていないだろうと、そんなことはわかっていたのだけれど。それでも。
「……わたしは、彼と会ったことがある。今年の、五月」
ただ少しだけ、ほんの少しだけ、期待していたのかもしれない。或いは、そんなことはただのきっかけで、どちらでも良かったのかもしれない。
「ふうん、まずはじゃあ、そのジョンじゃないジョン……って、もう、ややこしいわね。とにかくそいつに会って話を聞いてみるところからかしら」
「なにをするんですか?」
「この数日何処にいたか聞くのよ。こんな面白そうなこと放っておけるわけがないでしょ、SOS団としてはね!」
果たして何をするつもりなのだろうかとは、きっと聞いても無駄なんだろうということくらいはなんとなくわたしでもわかる勢いで、とんとん拍子に事を進めた彼女に気が付けば明日の放課後、駅前で、なんて約束を取り付けられていたものだ。
えすおーえすだん、と彼が何度も口にした随分奇妙な名前でわたしたちは知らぬ間にひとくくりになっている。そのことがいやでなかったのはどうしてだろうか。浮き足立つように心臓が締め付けられたのは、なぜだろう。
作品名:わたしはわたし以外の誰にもなることはできない。 作家名:繭木