未完のコピ本
アメリカが腕を骨折してしまったらしい。
いったいどんな状況で、どうやったらあいつがそんな怪我を……などと考えながら、連絡を受けたイギリスは渡米した。
イギリスが行く必要なんて別にないはずなのだが――とはいえ仕事が一段落したらどうせ駆けつけていただろうが――彼が負傷したという旨の電話を掛けてきたアメリカの側近がどうもだいぶ参っているようなので、持ち出し可能な仕事だけアタッシェケースに詰め込み、着替えも持たずにあたふたと母国を飛び出してきてしまったのだ。
(あんまり甘やかしたらだめなのに、俺ってやつは……)
ため息をついてベルを鳴らす。抜けるように青い空を日陰に入って見上げていると、カチャリと鍵を外す音がし、ドアが開いた。
訪問することをあらかじめ伝えていたので、姿を見せた側近は取り繕うことなく、疲れきった雰囲気をふんだんに漂わせている。どんだけ振り回されたんだとやや同情しつつ、イギリスは地面に置いていたスーパーの袋三つをよいしょと持ち上げた。それを横から預かってくれる側近の手。
「こちらは私が片付けてきますので、お願いします、アメリカさんを早くなんとかしてください……」
「ああ……うん……」
袋をがさがさ言わせてとぼとぼキッチンに向かう後ろ姿を、頬を引きつらせて見送る。本当に、いったいなにがあったというのか。
(なんか怖ぇな)
薄ら寒いものを覚えて、それでも行くしかなくて、イギリスは階段をゆっくり上り始めた。足音を立てないよう、気をつけて。
けれど。
「イギリスっ?」
音が聞こえたのか気配を察知でもしたのか、ベッドルームのドアが突然バァンと激しい音を立てて開いた。やっぱりな、と思った。おそらくベッドでいもむしになっているはずだというイギリスの読みは当たっていたわけだ。……嬉しくない。
「イギリスー! わあ本物のイギリスだ、来てくれたのかい!」
「ああ、まあちょっとな……って、えっおい、ぶっ!」
右腕にギプスを巻いたアメリカは、タオルケットを引っかぶったまま勢いよく突進してきた。イギリスを一度ハグしてから腰に片腕を回してきて、小脇に抱えてさっさとベッドルームに引っ込んでしまう。
アタッシェケースはそのへんに捨てられた。状況に慣れる間すら与えられないイギリスはベッドに投げ出され、待てよと言う前にアメリカが覆い被さってきて、この時点で疲れが襲ってくる。
「お前なあ……」
「ちょっと見てくれよ、この腕! ガッチガチに固められちゃってさ、全然動かせないんだよ! ゲームできないしスプーンもフォークも持てないしもう最悪なんだぞ、イギリス早くなんとかしてくれよ!」
「お前さー俺をなんだと思ってんだ?」
「骨折って嘘だろうなんなんだい、ちょっと転んだだけじゃないかー!」
「聞いてねえし……」
興奮してまくし立て、半泣きでマットレスを殴りつけるのをぼんやりと見守る。揺れるベッド。ぶれる視界。
イギリスは腹の上で緩く指を組むと、わめき声の合間に静かに質問をぶつけた。
「で、なんで骨折なんかしたんだよ?」
アメリカは顔を上げた。涙目で、鼻をすすっている。
「仕事してたらアイスを差し入れてくれた子がいて、取りにいこうとしたら電気コードにつまずいて転んで、こうなったってわけさ……」
「お前ほんっと成長しねえな!」
いつぞやも、アイスが原因で足を骨折してなかったか。なんて学習能力のないやつだ。
そのときのことを思い出したのか、アメリカが唇を尖らせる。
「意地が悪いな。そんななら来てくれなくてよかった」
即座にイギリスはやり返した。
「心配して着の身着のまま、わざわざ大西洋を渡ってきた恋人に言うセリフがそれか? なら俺は帰るとしよう。仕事がまだ残ってるしな、それも大量に」
大量に、なんて嘘なのだが、そうやってあえて冷たい声を作ると、見上げる顔が焦りに満ちる。ふん? と小首を傾げる、するとハの字になる眉。
そのうちに「ごめん言いすぎた」、小さな声が洩れてきて、なんだかあまりにしょげ返っているものだから、ああもうしょーがねえなあと頬を掻く。
元より怒ってなどいないイギリスは、無表情でいるのをやめてふわりと相好を崩した。……これで話を聞いてくれるだろうか。まったく困ったやつだ、こんな小芝居を打たないと口を挟む余地もくれないなんて。
ほっと緊張を解くアメリカの頬を包み、こつりと額を合わせる。
「……思ってたよりは大した怪我じゃなさそうで、安心した」
「……うん。ごめん、来てくれてありがとう」
素直になることに照れたのか、目の縁がほのかに赤らんでいる。
温度を増したように見える、青。
(あ……、)
予感して、イギリスは瞼を下ろした。そのすぐ後に唇が触れ合い、ベッドルームに濃密な空気が満ちていく。つい先ほどまで駄々をこねていた子供はどこにいったのやら、積極的にくちづけてくる男の右腕をギプス越しに撫で、首裏に手を添える。
(何日ぐらいの滞在になるかな……)
しっとりと濡れた音と声を洩らしながら、もやがかかっていく頭の中で計算する。あまり長くなってはまずい、忙しさが落ち着いている時期とはいえ気に掛かる案件を残してきてしまったし、上司に叱られる可能性も――
「イギリス……」
「ふ…、…なあ、あんまり…だめって……、ン…っ」
「だめじゃない、もっと」
そんな現実も、若い恋人に熱く囁きかけられた途端に霧散していくのだから困ったものだ。
ワーカホリック気味である自分からいとも簡単に理性をなくさせてしまうアメリカが、大きく口を開いてかぶりついてくる。くぐもった声での『だめ』は逆効果だったらしい。
(ほんと、困る、)
こんな気持ちいいんじゃ、キスをやめられそうになくて、困る。
まだ明るいうちにするにはやや行き過ぎたじゃれあいは、側近の男が遠慮がちにドアをノックするまで続いた。階段を上る足音にいち早く気づいたイギリスが慌てて起き上がろうとしても、アメリカは言うことを聞かないので難儀するはめになった。
「うン、む……、おいっ、いつまで……!」
「んーだって、したいんだからしょうがないんだぞ」
「わっちょっ、……ばか!」
調子に乗って腿を撫で上げる手の甲をつねる。わざとらしい悲鳴を無視し、さっさとベッドを下りた。
「君、気にしすぎだよ……」
もうーと眉を下げるクソガキをそのままに、廊下に顔を出そうとしたイギリスだったが、
「わた、わっ私、帰りますので、後はご自由にどうぞ!」
どもりまくったうぶなセリフを言い置いて、実直そうだった側近が一目散に駆けていってしまったので、無駄足となってしまった。
(うええ……)
恥ずかしくて、いたたまれなくて、ベッドルームの真ん中で立ち尽くす。次に彼と対面したとき、どんなふうにして会えばいいのか。お互い、耳まで真っ赤にして硬直するんじゃないか。
「イギリス、ねえ彼が帰ったならいいだろう、続き……」
後ろから抱きついてくるアメリカがそんな伺いを立ててくる。
思いきりイギリスは叫んだ。
「なにが続きだばか! もうしねぇかんな!」
少なくとも今日は。