Adagio
1.孤独のなかの神の祝福
アドルフは昔からピアノに触れるのが好きだ。
触れる、というのは文字通り鍵盤に触ることももちろんだが、ピアノが奏でる旋律、その元になる譜面、関わるすべてに触れることを含んでいる。
音楽自体を聴くことも、当然のように好きだった。
演奏というものには、奏でる人間の個性が滲み出る。
同じ曲を弾くのにも、それをどう解釈するか、表現するか、何一つ同じものはないのが面白かった。
自分と同じ解釈に出会えれば同じ感性に嬉しくもなり、まったく異なる感性にぶつかると驚きをもってそれを味わったりもした。
聴く度に新しい何かに出会える、それがアドルフが音楽に触れ続ける理由だ。
様々な事情から、音楽を専門にする道には入らなかったが、家族から離れて大学に通いながらも、自室に運び込んだピアノに触れない日はない。
『大切なものはすべてここにある』
そんなことをどこかの演奏家が言ったそうだ。
すべて、とは言わないが、アドルフにとっても多くの思い出を含む大切なもの、それがピアノであり、音楽だ。
冬の初めのある日のことだった。
昼日中でも寒さの厳しくなった空気を、首元に巻き付けたマフラーに首を埋めてやり過ごす。
長く吐きだすと薄く白く染まる息にぶるりと体を小さく震わせて、早く部屋まで帰ってしまおうと前に運ぶ足を速めた。
行き交う人たちの誰もが僅かに首を縮こめて、元気に飛び跳ねているのはまだまだ幼い子どもたちくらいか。
そろそろ雪の降り出す季節、か、と空を見上げる。
兄弟と思しき二人の少年が何事かはしゃぎながらアドルフを追い越していく。
ひらひらなびくマフラーが色違いの揃いの模様で微笑ましかった。
赤と緑のマフラーは、灰色の空によく映える。
見上げると、薄く淀んだ冬の空は、色彩を失くしてぼんやりと佇んでいる。
こんな色も嫌いではない、祖国の空だから。
少年時代に長く国を離れていた経験のあるアドルフにとっては、慣れた自国の空気も空も、それまで以上に大切なものとなっていたが、それでもやはり、こんな色の日は早く部屋に戻って温かいコーヒーでも飲んで、ぬくぬくと過ごすのがいい。
この前、数年来の親友が訪ねてきたときに土産として置いて行った多少上等なコーヒー豆がまだあったはずだ。
アドルフのために奮発したんだと笑ったヘスラーのために、あれを飲むのは二人がそろったとき、と勝手に心の中で決めていたのだが、こんなに寒い日なら、彼だって許してくれるだろう。
これもまた、自分ひとりの勝手な考えだが。
傍にない温もりの代わりに暖を取ることくらい、あの温厚な親友が許さないはずがない。
と、
再び早めた足を引き止めるように、耳に、何かが触れた。
物理的にでなく、
何か、
柔らかい、
音。
首を巡らせると、緑のすっかり落ちてしまった公園の片隅に、小さな人だかりがある。
通りがかりの人が、足を止めてはしばらくしてまた歩き出す。
程よく人の数を保ち続けるそこから歩き出す人々の顔は、心なしか柔らかく見えた。
温もりに触れたとき、ひとはあんな顔をするのだろうという、そんな顔だ。
音の源は、そこ。
惹き付けられるように、足が向かった。
柔らかい音、それは、
「……ヴァイオリン、」
一人の青年が、それは楽しそうに演奏をしていた。
歳の頃はおそらくアドルフと同じくらいだろうか。
取り囲む中の子どもが、あれを弾いてこれが聴きたいと、一曲終えるたびにリクエストをしているらしい。
どうりで、アドルフには耳慣れたクラシックの定番曲から、誰もが幼いころに聴いて育ってきたような童謡までも含まれているわけだ。
聴衆は行き交い、徐々に顔ぶれは変わっていったが、アドルフはそこからしばし動かなかった。
好きな音だったからだ。
温かくて、おそらく本当に、奏でることが大好きなのだろうと分かる音。
寒さに竦めていたはずの首も、いつしか緩んで、アドルフは演奏を聴き続けた。
「音楽、好きなのかい?」
ふと話しかけてきたのは、隣に立って同じように長い時間演奏を聴いていた初老の男だった。
「ええ、まあ、」
人好きのする笑顔で話しかけられて、アドルフはそんな返事をする。
「お前さん、ずっと動かないで聞いてたもんな」
笑いを含んだ声音にはすぐにそうとわかる程度の好意が含まれていて、ならばこの男もきっと音楽を好きな人種なのだろうと思う。
「お好きなんですか、」
音楽、と聞き返せば、ああそうだな、と男は目を細めた。
「大したものじゃないが、まあ、この年になっても音楽さえあれば有意義に生きていけるとは思っているさ」
音楽に人生という言葉がかかるのだから、本当に好きなのだ。
アドルフはそれを聞いて自然に微笑んだ。
「……あれ、いい音だろう? あれな、俺の店で演奏してるやつなんだよ」
目の前で相も変わらず楽しそうに演奏を続けている青年を指差してから、男は足元に置いてあった紙袋を抱え上げた。
「店?」
「小さいカフェなんだけどな、この先にある。俺の音楽好きが高じて、店に寄ってくるのは音楽好きなやつらばっかりさ」
ピアノやらヴァイオリンやらハーモニカやら、なんでもありさ、と、抱えた荷物を具合よく持ち直しながら、男は楽しそうに言った。
ピアノ、という単語にぴくりと反応をする。
「……へえ、」
興味をもった、というのが様子で伝わったのかもしれない。
よければ来るか、と男は気さくな様子で肩を叩いて、アドルフはといえば、
「ぜひ」
頷く以外の選択肢をもっていなかった。