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Adagio

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「うちに来る連中は、まあ、いろいろだ」

この先にある、という言葉通りに公園から数分歩いただけの路地に、古い佇まいのその店はあった。
店主は店の扉を開けながら、そんなことを言って、促されて後に続いて中に入る。
カフェ、という表現を聞いたが、カウンターの中にはアルコール類の瓶がひと揃い、ずらりと並んでいるところを見ると、夜にはバーとして営業している、といったところだろうか。
特別に広い敷地ではない。
カウンターに数席と、いくつかのテーブルに椅子が3・4脚ずつ。
その所々に座るぱらぱらとまばらな客に、気安い挨拶をして店主は奥に入っていく。

「マスター、客に店預けて出てちゃだめだろうよ」

「あんまり戻ってこないからいっそ自分でいれようかと思ってたところだぜ?」

温かい揶揄を受けて、店主は荷物を取り出しながら、ははと笑って片手をひらりと上げる。
多分常連なのだろう、まあまあ、いつものことだろうと軽い調子で返す中にも、気心の知れた間柄だということが見て取れる。
店主に従ってたどり着いたカウンターの前に立つアドルフにも、寒かったろう、だとか、そんな温かい挨拶が寄こされて、小さく頭を下げた。
ぐるりと見回すと、店内の奥には小さなステージと、壁際には古いけれどよく手入れされていると一目でわかるグランドピアノが置かれている。
ついつい目がそこにいってしまうのを、突っ立ってないで座りな、と言いかけた店主が察したらしい。

「弾くか?」

此処に来る途中、楽器は弾くのかと問われたから、趣味程度だがピアノを、と答えている。
当然そこにアドルフの注意が向くのも分かっていたのだろう。
コーヒーでも淹れるから、ちょっと弾いて待っててくれ、楽譜がいるならそこらにあるのを勝手に使っていい。
それだけ言ってアドルフの答えも聞かず、店主はコーヒー豆を取り出し始めた。

「え? ああ、……」

一瞬戸惑ったが、グランドピアノはさすがに自分の部屋には置けなくて、最近触ることがなかった。
触れられるのは、嬉しい。
そっと近寄って、蓋を開ける。
ずしりとした心地よい重み。
鍵盤のカバーを外して、畳んで脇に置く。
整然と並んだ白と黒は、丁寧に丁寧に磨きこまれているようで、曇った輝きを放っている。
なんだよ、新入りか?
そんな声が背後でした。
客の一人が店主に話しかけているらしい。
ああそうじゃないんだけどな、返す店主の声を耳に素通りさせながら、アドルフはもう目の前の鍵盤にしか意識が向いていない。
指先だけで鍵盤に触れて、目を閉じる。
下ろした指が感じる重み、それが全身に伝わって、柔らかい音が響いた。

いい音だ。

きっとこのピアノは愛されているのだろうと思う。
誰にも弾かれなくなったピアノはとても淋しい音がするのだ。
実家に帰ると、残念ながら自分以外には弾き手のいないピアノがあって、調律や手入れだけは母親がなんとかしてくれているようなのだが、どうしてか、ぎこちない音しか奏でない。
姉や妹が触ってくれればいいのだが、彼女達はわりと早くにピアノには興味を示さなくなっていた。
アドルフがあまりに夢中になりすぎていたせいかもしれない。
もしかしたら、アドルフがピアノを占領しすぎて彼女達のピアノに触れる時間を奪っていたのかも、と今更ながらに思うことがある。
指の動きに合わせて様々な音を奏でる黒い箱に夢中になった昔が思い出されて、懐古の念にとらわれる。
次にボンに帰ったときには、思う存分あのピアノも弾いてやろう。

それに比べて、このピアノはきっとたくさんの人に奏でられ愛されているのだろう。
柔らかく滑らかに沈む鍵盤の重み。
低く響く音が沈み込んで、空気を揺らして店中に伝わっていく。

うん、いい音だ。

思わず笑みが頬に乗り、椅子を弾いて腰をかけた。
マフラーもコートも身につけたままだということに、この時初めて気づいたが、もう指がうずうずとして待ちきれない。
温かい店内でこんな恰好で演奏をするのも滑稽かと思ったが、まあどうでもいいかとすぐに思考を放棄した。
集中する、鍵盤に。

このピアノにふさわしい曲は、なんだろう。

多くの人に愛された楽器に、

祝福と、

称賛を。








「弾きに来ないか、時々でいいから。バイト代も出すぞ」

「………え?」

「学生の独り暮しなんだろ? なんだったら賄いで食事も食べていけばいいし。コーヒーも飲み放題だ」

俺の腕はなかなかだろ、とアドルフが口を付けたカップを指差す。
確かに苦みと香ばしさが混じりあって、深みのあるこの味はとても好みだ。
これが何回も飲めるのならそれは確かに喜ばしいことだが、

「……それは、申し訳ない気が」

「あんたのピアノ、気にいったって客がいるからな」

居合わせた客が、一曲弾き終えたアドルフに拍手を送り、もう一曲、と求めたのはつい先程のこと。
実は今飲んでいる一杯は、その客のうちの一人から奢られたものだ。
自分の演奏が誰かに喜ばれる、というのはとても大きな喜びだ、というのを思い出させられた。
ここのところ、アドルフの演奏を聴くのはもっぱらヘスラーひとりだったから。

「………」

傾きかけたアドルフの心を後押しするように、店主はにやりと笑う。

「客寄せにもなるだろ」

うちは若い女性客は少ないからぜひ若者が呼び込んでくれるとありがたい、そんなことを言って茶化して、それから、店主はとても温かい目をした。

「それに、」

「………?」

「あんたの音楽好きは、伝わってきたよ。可愛がってもらえるやつに、あのピアノは弾いてほしい」





そうしてアドルフは、新しい働き口と幾らかの給料と温かい食事と、音楽に触れる貴重な時間を得たのだった。







『 ?孤独のなかの神の祝福? フランツ・リスト より』

2010.8.22

作品名:Adagio 作家名:ことかた