Adagio
食器を洗いながら、水滴を拭き取りながら、洗濯物を干しながら、一体何の印だったかと思案を止めなかったのだが、結局家事のすべてを終えてもまだ答えは見つからずじまいだった。
まあ、家事とは言え一人分、たかが知れた量ではあるのだが。
椅子に腰掛け、結局もう一杯入れてしまったコーヒーをカップに注ぎながら考える。
カレンダーの謎が解明されるまではどうにも落ち着かない。
が、いくら考えたところで何も思い出せないのだから仕方がない。
どうしたものか。
と、一口、口を付けようとしたところで、
リン、
玄関のベルが鳴った。
カップを置いて、立ち上がる。
扉を開けると同時に飛び込んできたのは、
「ああ、よかった。いたな」
心底安堵したような声と、
「ヘスラー!?」
僅かばかり息を乱して肩を上下させる、しかしにこにこと穏やかな顔。
柔らかい表情だけは昔から絶対に変えないままだから、一瞬先程の思い出の中の風景が脳裏をよぎる。
いつでもその中に、自分の一番傍にあった、姿。
けれど、今、ここにあるのはおかしい。
「どうしたんだ、突然。しばらくは大学のゼミが忙しいとか言ってなかったか?」
この前ヘスラーがやってきたときに、しばらくは忙しくて、月の半ばまでは時間が取れない、そんなことを話した記憶がある。
もともと記憶は得意分野だが、ことヘスラーに関して、記憶違いをしない自信がある。
そうだ、だから今日はアドルフは特に予定もなく過ごすはずになっていて、だから一人で何をしたものか、と考えたところだったのだ。
「そうだったんだが、昨日の内にやることを全部終わらせてきたから、まあ、今日はお役ご免だ」
おかげで少し寝不足なんだ、という目元は、確かに少し疲れたようにも見える、が。
何を一体そんなに、と首を傾げようとしたが、
「とりあえず、入れてくれないか?」
喉が渇いたんだ、と珍しくヘスラーが音を上げた顔をして、アドルフは慌てて足を下げてヘスラーを招き入れた。
ちょうど飲もうと思ってたんだが、これでもいいかと口を付ける寸前だったカップを示すと、何でも構わない、と大らかな返事が返ってきた。
椅子に座ってコーヒーを飲み干して、やっと人心地ついたという風情のヘスラーの向かいに、改めて自分用にも一杯注いでから腰を下ろして、改めて尋ねる。
「いったいどうしたんだ?」
突然やってくるなどということが本当に珍しい。
基本的にはお互いの生活を尊重して、きちんと予定を立ててから会うのが二人の常なのだ。
まして、他人を思いやるために生まれてきたような性格のヘスラーが、こんな突発的な行動を取ることは本当に稀だ。
「調べたんだ、昨日」
「何を」
「時間を」
「時間?」
「開始時間」
「………だから、何のだ?」
「この街のは昼過ぎに一本だけだったから、飛んできたんだ」
「おい、ヘスラー?」
さっぱり会話がかみ合わないし、内容が見えてこない。
けれどヘスラーはアドルフの反応にはお構いなしだ、珍しいことに。
「間に合ってよかった。見に行こう」
ずいと乗り出した手が、アドルフの手に重なった。
「何を」
見に行くんだと聞き返そうとしたけれど、被さるようなヘスラーの声に阻まれた。
「映画」
お前が前に見たいと言っていた作品、今日で上映終了なんだろう。
間に合ってよかった。
二人で見れたらいいと思っていたから。
「見に行こう、二人で」
上映前には見たい見たいと思っていたけれど、いざ始まって周りの評判などを聞いていれば、徐々にそれだけで満足してしまう、機を逃して見ずじまいになる、などというのは割とよくあることだろう。
多分何かの雑談の中に、おそらくそんな話題が交じっていたのだ。
よくよく思い出してみれば「一緒に見たい」なんていうことを、アドルフが言ったような気もする。
それをヘスラーは律儀に覚えていてくれて、そして、予定を押してまで、駆けつけて来てくれたというわけで、
そんなこと、アドルフ自身すらすっかり忘れていたというのに。
そうすると、
もしかして、
「………カレンダーの丸も、ヘスラーか?」
「丸?」
壁にかかるカレンダーを指差すと、ああ、とヘスラーは頷いた。
「上映、ここまでだっていう覚え書きだ。忘れてはいけないと思ってこの前書き込んでおいたんだが、……何か問題でもあったか?」
ああ、一人ではないのだと思うのはこんなときだ。
家族とも仲間とも離れて暮らす毎日の中で、何気ないところにヘスラーの気遣いの欠片が紛れている。
一人分だった、洗うはずのカップは二人分になった。
正体不明の記号の真実は、アドルフのためのもの。
アドルフの日常に、ふとした瞬間に入り込んで、温かい気持ちにさせる。
ひとりではないと思うのは、こんなときだ。
「いや、」
問題なんて何もない。
ただ、温かなだけ。
ただ、たまらなく嬉しいだけだ。
口元を右手で覆ってごまかすが、緩んでしまう頬も目元もどうせヘスラーには隠せはしない。
「行こう、まだ間に合うから」
食器を片づけて、二人分になったカップを片付けて、そして二人並んで街を歩く。
向かう先ではまた二人並んで、同じものを見て、同じものを感じて、そうして時間を共有する。
そうして、新しい思い出を刻んでいくのだ。
『思い出のすぐそばで』
2010.8.24