Adagio
「それで、最近忙しかったのは、その子にピアノを教えるためなのか?」
店までの道のりをのんびりと歩きながら一通りの説明を終えると、ヘスラーがそこで初めて口を挟んだ。
たどたどしくしか弾けないピアノを、仲直りしたい友達のために上手に引きたいという少女の願いを聞いて、ここしばらくのアドルフの余暇は割かれていたのだ。
「ああ。悪かったな、せっかく来てくれたのにあまり時間が取れなくて」
「それは構わないんだが。それよりその子は仲直り、上手くいったのか?」
「会えば分かる」
ちょうど辿りついた店のドアをぐいと引く。
カランと扉の鈴が音を鳴らした。
「よう、アドルフ」
足を踏み入れるなりかけられる声が、しかしすぐに好奇心に満ちた声音に変わる。
それは総じてアドルフの後ろに向けられていて、面白がるように注目が集まる。
「アドルフ、もしかして噂の友達かい?」
「ああ、そう。………噂?」
友人が来ているんだと直接話したのはマスター相手にだけなのだが、おそらくそこから広まったのだろう。
いったいどんな噂なんだと呆れ半分の返事をする。
客の一人がにや、と笑った。
「付き合いが薄そうに見えるアドルフが、何日も家に泊めるほどの親友が来てるって。どんな物好きか見てやろうとみんなで」
「……悪かったな」
人のよい顔で会釈をするヘスラーに、アドルフとは違って愛想がいいだの、アドルフは少しは愛想を分けてもらえだの、好き勝手に言っているのを背中で聞いて、肩を竦める。
遠方から友人が来たら誰だって家に泊めるくらいするだろうとは思うが、確かにヘスラー以外にはそこまで深入りさせることはない。
他人と一定の距離を保つのは昔からで、それで人間関係を作るのも昔から。
カウンターに着くと同時にマスターが微笑みかけてくる。
連れて来いと言ったから連れてきたんだとヘスラーを視線で示すと、親しみを込めた目が向けられる。
「名前は?」
カウンターに二人並んで腰を下ろしながら、ヘスラーが答えようとしたところに、
「ヘスラー、だよ!」
幼い声が後ろから飛び込んできた。
「マリー」
ばふ、と、何が気に入ったのかまたアドルフの足元に飛びついてきた少女が、マスターを見上げた。
「アドルフのだいじなおともだちなんだよ」
そう言ってから、ヘスラーににこにこと同意を求める。
「ね、」
「ああ、そうだな」
カウンターの席に着こうと苦心しているところをヘスラーが抱え上げて、二人の間に座らせてやる。
すかさずマスターがジュースを出して、
「ところで、仲直りはできたのかい?」
ここのところの懸案事項を尋ねるが、にこにこと笑う少女の顔を見れば答えなど聞かなくても分かっている。
うん、と弾けんばかりの笑みでもってこれに応えて、それからアドルフの袖を引く。
「アドルフ、ありがとう」
素直な少女の頭を撫でてやると、くすぐったそうに笑った。
少女が笑うと周りも明るくなる。
「仲直りできてよかったな」
「うん!」
仲直りを果たした友達とあんな話をしたのだ、こんなことをして遊んだのだと喜ぶ少女の話をひとしきり聞いた後、
「あのね、」
両手で口元に囲いを作って内緒話をする仕種をしたので、上半身を屈めて耳を寄せる。
「うん?」
あたしね、とさも嬉しそうに、それからとても大切な秘密を打ち明けるように、少女は微笑んだ。
「大きくなったらね、」
「ああ?」
「アドルフのおよめさんになりたいな」
満面の笑みに一瞬、応えに詰まる。
「……あー、…」
なんとなく少女の向こうのヘスラーの顔をばつ悪く見やって頬をかくと、内緒話とは言え漏れ聞こえていたらしい内容を聞きつけて、途端に周りが冷やかしにかかった。
半ば以上の嫉妬を込めて。
「おいおいアドルフ、モテるじゃないか」
「マリー、やめといた方がいいぞ、アドルフは愛想が足りない」
やっかみなのかからかいなのか分からない声があちらこちらから上がって、しかし少女はぷっと頬を膨らませた。
「そんなことないもん、アドルフ優しいもん!」
当のアドルフを置いて、客たちが必死の少女とのやりとりを初めてしまった。
溜め息をついてカウンターに座り直すと、真顔のマスターの視線に行き当たる。
「お前さん、あと10年は手出すんじゃないぞ?」
口にしかけたコーヒーをあやうく吹き出しそうになって、
「出さない!」
「アドルフのおよめさん、か」
帰り道にぽつりとヘスラーがそんなことを呟いたから、アドルフはまだ蒸し返すのかと苦笑した。
「真に受けるなよ、子どもの言うことだろう」
「いや……少し、妬ける、な」
半歩ほど遅れて歩くヘスラーに思わず振り向くと、自分よりも少し高いところにある視線がにこりと微笑んだ。
「妬けるな」
「………妬くなよ」
相手はほんの小さな少女で、嫉妬するとかしないとかいう話ではない。
それに、とてもではないが妬いているとは思えないヘスラーの表情に、珍しく何の冗談かと苦笑すると、すいと腕が伸びてきた。
アドルフの首にそれは自然に絡みついて、
「そうだな、」
巻き付いた腕を何とはなしに見つめていると、間近に迫った声が頭の上で囁いた。
「アドルフは10年後も、俺の隣にいるはずだからな」
髪に埋められた唇が紡いだ言葉に、アドルフは小さく笑った。
「……当たり前だろ」
『 〜子どものためのアルバム 第15曲:春の歌〜 シューマンより 』
2010.9.5