Adagio
「友達が来てるんだって?」
だったら連れてこいよ、コーヒーの一杯くらいは奢ってやる。
淹れたてのコーヒーを差し出しながら、マスターが言った。
アドルフは内心で首を捻る。
確かにヘスラーがこちらに来て2日がたつが、特にそれを店の誰かに話した記憶がない。
「……話したか?」
「ああ、聞いたんだよ」
「誰に?」
ごつごつした指がひょいと差した先には、テーブルの一つに腰かけて足をぶらぶらさせている少女。
ああ、彼女には初日に連れ立って歩いているところを出くわしているのだから、それが伝わったということか。
その少女は、今日も今日とてアドルフのピアノを聴きに来たらしいのだが、今日に限ってはどうも様子が違っている。
ピアノの傍には寄ってこないし、あまり熱心に聴いている風でもない。
どこか上の空で、子どもながらに何か心配ごとでもあるのだろうか。
「……どうかしたのか?」
視線を少女に固定したままマスターに尋ねるのだが、
「さあ、聞いても教えてくれないんだ」
こんなおじさんじゃ役不足らしい、と半ば以上本気で悔しそうな顔をしてから、マスターが肩を竦めた。
「"大好きなアドルフ"になら、話す気になるんじゃないか?」
嘆く様子もそのままでの提案だったが、前半部分に必要以上の比重を置いた話口から、どうやら半ば以上本気で妬まれているらしいと分かる。
が、少女の心配をしているのは本当のようだ。
コーヒーもう一杯出してやるから行ってこいよ、と顎で示されて、溜め息ひとつで返事をした。
ちゃんとオレンジジュースのグラスを出すところがさすがはマスターだ。
席を動いてことりとグラスを少女の目の前に置くと、伏し目がちだった視線が上がった。
「アドルフ」
いつもなら丸く元気よく見開かれた茶色の目は、しかし今はわずかに曇っている。
またすぐに、俯き加減に戻ってしまう。
いつもならばすぐに手をつけるジュースのグラスにも、なかなか手が伸びない。
俯いたままの少女に困ってカウンターを見るが、マスターの鋭い視線が飛んでくる。
話を聞き出すまではコーヒーの一杯も出してやらないとそれは如実に語っていて、そうなるとアドルフには従う以外の選択肢はない。
既に一度挑戦して玉砕したらしい他の客からも少女を気遣う視線は集まっている。
ここで退散したら役立たずだの何だのと、後々散々言われることになるだろう。
仕方がない。
今後の自分の立場と、日に一杯のコーヒーを確保するためだ。
何より、アドルフ自身も常に元気な少女の常ならぬ様子は心配であったのだから。
「どうした? いつもの元気は」
隣の椅子に腰掛けて本格的に聞く姿勢を作る。
「…………うん」
「何かあったのか?」
「……アドルフは、ケンカってする?」
「喧嘩?」
「おともだちと、……ヘスラーとかと、する?」
喧嘩。
争い事が面倒な自分と争い事を好まないヘスラーとでは、基本的に喧嘩になることがない。
昔からそうなのだから、今更あれこれと諍いなど起こるはずがない。
他の友人たちとも、この年になれば距離の測り方が分かってくる。
大人はそうそう喧嘩などしないものだが、この少女が言いたいのはそういうことではないのだろう。
「……昔は、しないでもなかったかな」
「そうなんだ………」
はあ、と物憂げにため息を吐いて、少女はテーブルについた手の上に顎を乗せた。
「喧嘩したのか、誰かと」
「………うん」
「仲直り、してないのか」
「……………うん」
子どもの喧嘩なんて、大人が聞けば何ということもないことが原因で、日がたてば記憶の彼方に消えてしまうようなものだ。
それこそ、大人が仲介に入って「ごめんね」「いいよ」のやり取りだひとつで何のしこりもなく手を繋げるほどに。
けれど、当事者たちにとってはその時は限りなく深刻で真剣で、だからたかが子どもの喧嘩だと片付けてはいけないのだとアドルフは知っている。
「仲直り、したいんだよな」
「うん、でも、あたしもものすごくおこっちゃって、ごめんなさいだけじゃ足りない気がするの」
どうしたらいいのかな、と眉間にぎゅうと皺が寄った。
喧嘩の仲直りに限らず、気持ちの伝え方はいろいろある。
言葉に乗せる方法、態度や行動で示す方法。
文字にしてしたためる、というのもひとつの手か。
自分はそれほどには喧嘩などというものをした記憶がないのだが、身近には、仲が良すぎて他愛もないことで喧嘩を繰り返していた仲間もいたものだ。
あの二人は今でも相変わらずなんだろうか。
放っておけば勝手に仲直りまで済ませていた彼らだったが、そういえば、喧嘩真っ最中の彼らに時々ピアノを聴かせたことを思い出す。
気持ちが落ち着くから何か聴かせてくれ、その後に謝りに行こうと思うから。
二人ともそれぞれからそんなことを言われたこともあったのだったか。
思うに、音楽にはひとを癒したり素直にさせたり、自分を見つめ直させたりする効果があるのだろう。
「マリー」
「?」
「仲直りの方法、ひとつ思いついたぞ」
「え?」
小さく笑って顔を耳に寄せる。
そして、かつての友人たちにも有効だった方法を耳打ちしたのだった。