図書館ではお静かに
「あ、立花だ」
名前を呼ばれて顔をあげると、食満がぶあつい本を数冊抱えてこっちに向かってくる。なんで大きい机に座ってしまったんだ、と後悔して、その後悔を彼にもわからせようと顔をしかめたのに結局それは徒労に終わったようで、食満はどんと本をおいてなにしてんの、と何も考えていない口調で尋ねてきた。私は本を幾冊も開いているしノートも開いているし筆記用具も手にしていて電子辞書までスタンバイさせているというのに、言うに事欠いて「なにしてんの?」ときたもんだ。見てわからないか、勉強だと返すのも嫌なので、自分で考えろと答えた。「見てわからないか、勉強だ」より「自分で考えろ」のほうが字数が少ない。至極合理的だ。食満は面食らった様子で(まあ想定外の返答だろう)、椅子の上でからだをもぞもぞ動かした。落ち着きのないやつめ。
「……おい」
「あ?」
「居座る気か?」
「だって場所あまってんじゃん」
「居座る気なんだな」
「なんかだめな理由があんのかよ」
「何時に帰る予定だ」
「…はあ?」
「聴こえなかったのか?」
「えーっと、えー、5時くらい」
「なら商談成立だ」
帰りになにかおごれよ、と言うと食満はあからさまに嫌な顔をして、しかし席は立たなかった。なんだかんだやさしい、というか人にあまい男だ。多分これを言うのが私でなくてもこいつはその理不尽を受け入れるだろうことは明明白白で、私はまた不愉快になって手にしていたペンを投げ出した。集中の糸はとうに切れていて、そして食満が向かい側に陣取っている限りそれは回復しそうになかった。結んだりなんだりするのも億劫で、重力にしたがって流れるままだった髪の先をなんとはなしにいじる。いじったところで、変につよい私の髪には枝毛のひとつも見当たらないのだった。今日もつややかで、さらさらで、目に余る癖もなく、なんのケアもしていないのによくやることだ、と私は髪を心のなかで褒めた。いつもがんばって美しくあろうとしていておまえは偉いな。
必死に勉強しているんだろうと思って食満をみるとなぜだか目が合った。なぜだかもなにも食満が私をみていて私も食満をみたから目が合ったのだが、私はびっくりしたのに食満は一向に驚く様子がなかった。あまりにも彼が平常なので、なんでだ、なんでおまえは私をみていたんだ、と聞くに聞けない。私の困ったのが顔に出ていたのか、食満はなにか気付いた顔をして、ああ悪い、と言った。
「…なにが、」
「いやーおまえ髪キレイだなーと思って」
「……は?」
「遠目じゃ結構みんなキレイだけどさ、おまえのは近くで見てもキレイなんだなー」
「…別に普通だろう」
「普通じゃねえよ。なんかやってんの?」
「してない。なにも」
食満がそうなのか、と残念そうにしたから、悪かったなと機嫌を損ねてみせると食満はまた謝って、いやあ、いつか聞き出せって言われてたんだよなあと頭をかいた。意味がわからない。目の前の男は手元の本をみながら、
「いやなんかクラスの女子がさ、立花さんの髪にはどんな秘密があるんだろーって」
「…自分で聞いてくればいいのに」
「聞いたことあるってよ。そんときにも特になにも、って言われたらしいけど、」
食満はちら、と私をみて笑った。
「立花さんは私たちにその秘密を教えたくないんだ、とか言って」
「ばかじゃないのか…」
「俺もそう思うよ」
食満は一冊の本を閉じて次に取り掛かった。ページを繰って、目ぼしいものをノートに写し、他の本を参照し、という彼の作業を私はじいっとみていた。自分の勉強などもうどうでもよくなっていた。本は借りて帰れるし、なにより勉強は家でも出来るが食満を観察出来るのは今だけだ。食満はまた私をちらとみて、また笑って、もう勉強しねえの、と聞いた。しない、と返事してから、こいつ私がなにしてるかわかってたな、と思い当たった。へえ。なかなかかわいいことするじゃないか。食満の手元にあった四角いメモ用紙を一枚拝借して、私は鶴を折ってみることにした。久し振りでなかなか手順が思い出せなかった、なんとかかんとか形にしてみた。出来上がる頃には、5時まであと20分、というところだった。
「食満食満」
「なに」
「あげる」
ただの白い鶴を差し出すと、食満は吹き出して、へったくそだなあ!と息も絶え絶えに言った。確かに不格好だがそんなにか、とも思うが、今の私は大変寛大なのだ。ふふん、と鼻で笑ってみせると食満はやっと不自然に気付いたのか、怪訝な顔をして笑うのをやめた。ときに食満留三郎、と私は切り出した。彼はあからさまに警戒している。
「どこのどいつに頼まれた」
「……なんのことだよ」
「そう恥ずかしがるなよ。まあな、気になる女に言われたらいかに相手がこの私でも聞かざるを得ないよなあ」
「………おまえ、」
「なにしてんの?とか言っちゃって」
「立花!」
「で、誰なんだ」
「別に誰でもねーよ…!」
ははは、と笑ってみせると食満はあーー!!と叫んで机に倒れた。遠くから司書の先生がこちらを窺っている。静かにしろよ、と頭を殴ると食満は憮然として起き上がった。いたずらして叱られた子供の顔をしている。元々悪い人相がますます凶悪になってるぞ、と覗き込むと、食満はぱち、と目を見開いて私の名前を呼んだ。
「おまえ、ほんっとに、近くでみても隙がねえビジュアルだなあ」
「……なに、」
「もてるだろーおまえ。なんで彼氏いないの」
デリカシーのなさに吐き気がした。殴ったり刺したりするのも面倒で、いいからさっさと終わらせろ、と言って椅子に深く座り直すと、私の機嫌の急降下に気付いたのか食満はにわかに慌てだした。横目にみるとびしっとかたまる。私はまた暇になって、一分の隙もなく綺麗な髪先をいじることにした。名前も知らぬだれかが嫉妬しているこの黒髪は、本当にただただ美しいのだった。私だって、彼らほどに純粋に美しくありたいのだ、本当は。でもそれは無理だし、食満をけしかけたどこかの女(もしかしたら複数かも、)にも同様に無理なことだ。邪魔極まりないが、私たちには自我が巣食っている。残念ながら。
「どこのだれが私を好いてくれようと、綺麗だかわいいだ言ってくれようと、私が好きな人が私を好いてくれなかったら、それはどうにもならないことなんだよ」
食満がとうとう本とノートに完全に視線を戻したのを確認して、私は聴こえても聴こえなくてもいいくらいの気持ちで呟いた。食満は動きを一瞬とめたけど、それはただ単に気になる記述をみつけたからなのか、私の言が聴こえたからなのかはよくわからなかった。彼が時計を確認する頃には5時を少し過ぎていて、食満はそろそろ行くか、と片付けをはじめた。私は勉強を早くにやめたのでとっくに仕度は完璧にしてある。食満はかばんを持って、どこいく?と尋ねてよこした。
「あまいもの。おいしいあまいもの」
「言い直さなくていいだろそれは」
「ケーキなら紅茶もおいしいところ」
「俺がそういう店知ってると思うのかおまえは」
「思わない。そういう店でよければ案内するが」
「…よろしくお願いします」
「とびきり高いのを頼んでやる」
「……立花」