Storms
例えばここに、一滴の「毒」があるとしよう。それはもうこの一滴でたちまち象も倒せるほどの猛毒だ。
ある日この「毒」を不可抗力とはいえ手に入れて以来、俺はずっと悩んでいる。
使うべきか、使わざるべきか。
どっかの名台詞ではないけれど、それくらいに考え続けているが未だ答えは出ない。このままでは衝動的に使ってしまいそうで怖い。呑めば彼をころしてしまうかもしれないのに。そう、頭では判っているのに、それでもこの気持ちを抑えることは難しくて、時折焼き切れそうになりながら笑 顔の下、押し殺している。
でももうそろそろ限界だ。自分を見失う前に、どうするかを決めなくてはならない。
使うべきか、使わざるべきか。
――――なあ、跡部、どないしよう。
好きだと告白してから二ヶ月が過ぎた。
だからと云って、特に何が変わったということもなく、相変わらずな日々を過ごしている。ただ、時折跡部が物云いたげにこちらを窺う回数が増えたように思う。視線を感じて振り向くと、そこには大抵跡部が居て、彼が自分を見ているという事実に喜んで笑っては、顔を顰めてそらされるということを繰り返していた。
そして、今も。
「ああ、また振られてしもうた……」
重なった視線を外し、跡部は部員指導のためにレギュラーコートを出て行ってしまった。背中を向けた跡部は決して振り向かない。それを痛いほど知っているので、思わず切ない溜息が洩れた。
「んー?何、また跡部のこと?」
聞こえていたのか、岳人が忍足の元へやって来る。
「……なあガックン、跡部は俺んことどない思ってるんやろか」
たいして返事は期待していなかったのだが、意外にもまともな意見が出た。
「どうもこうも。侑士がはっきりしないから困ってんじゃねえの」
実にあっさりと確信を突いてくる。忍足は少し言葉に詰まりながら、
「そないなこと……」
「ないって云うわけ?ほんとに?」
岳人の追求は容赦がない。忍足にしても自覚がある分何を云っても言い訳にしかならないことを悟って黙るしかなかった。
「侑士はさ、跡部に告白してそれで一応気は済んだのかもしれないけどさ、跡部にしてみれば云い逃げもいいとこじゃん。好きだって云われてそれだけで何も云わないのって、単に気持ちの押し付けだろ?侑士、一度でも跡部の気持ち、聞いたことあんのかよ」
「…………ない」
「だろ?押し付けるだけ押し付けてそのままなんて、跡部が可哀想だ。侑士が動かねえと、跡部もどうしようもねえし、……侑士だって、辛いだろ、ずっとこのままじゃ」
岳人の言葉に揺さぶられる。岳人の云うことはもっともで、跡部に気持ちを託して何も云わなかったのは自分の臆病さ、意気地無さゆえ。本当は、告白だってする気はなかったのだ。けれど、堪えられなかった。余りの恋しさに、ただ友人で在ることにすら苦痛を感じるほど。彼を引きずり込む勇気も、巻き込んだ責任を取ることも躊躇うくせに後先考えずに告げてしまった。今の自分は、友人ですらない、むしろ跡部に混乱を与える存在に過ぎない。そんなこと、一度だって望んだことはなかった。
ただ、彼を好きなだけなのに――――。
跡部が否定しなかったことに愚かにも喜んで、浮ついて、一度だって彼の気持ちなど考えなかった。自分のことにいっぱいいっぱいで、跡部がどう思うかなんて気付きもしなかった。
忍足は跡部が去った方向を振り向く。
こんなに好きなのに、どうしたらいいのか判らない。彼に、どう云えばいいのか思い付かない。
忍足は視線を下げ、自分の爪先を見つめた。
最初は見詰めるだけでいいと思った。そしたら次第に触れたいと思うようになった。あの綺麗な髪に、シミ一つない滑らかな肌に、凍てつくほどに冴えた碧眼に、自分だけを映してみたかった。でも同時に、そんなこと願うだけ無駄だとも思った。跡部は決して自分を受け入れないだろう。男同士なんて、不自然もいいとこ。こんな生産性もない先行きさえ見えない道は、彼に相応しくない。そう考えて、黙ってた。
けれど本当は、自分が怖かっただけ。自分自身が酷く怖かった。信じられなかった。まさか、自分が男を好きになる日が来るなんて思わなかったから。何かの間違いだと何度も思った。でもその度に思い知らされる。跡部を見る度に、声を聞く度に、彼が好きだと、愛しいのだと、理性を裏切って心が叫んで跡部を求めるのだ。
それを思い知って、ああもう駄目だと、この気持ちからは逃げられないのだと観念した途端、急に怖くなった。
自分は、いい。もう引き返せないほど深みにはまった自分は、もう進む道しか残されていない。だから、いい。苦しくても、自分が決めたことだから。でも、跡部は違う。彼には沢山の選択肢があって、どれを選んでも跡部に相応しい未来が待っている。でももし、それを自分が潰してしまったら?自分のエゴで、跡部も自分と同じ道を歩くことになったら?
忍足には、跡部にすべてを引き替えにしても悔いはないと思わせられる自信がなかった。
自分は跡部が居ればそれでいい。けれど跡部は?
忍足はそんな考えに捕われて、跡部に何も云えなかったのである。
岳人は、暫く黙って忍足の様子を眺めた後、勢い良く忍足の胸を叩いた。
「――っつ、何すんねん岳人!」
あまりにも突然だったため見事に入り、衝撃に一瞬息が詰まる。胸を抑え、岳人を睨み付けた。
対する岳人は飄然としたもので、手にしていたラケットを頭の後ろに固定し伸びをする。
「だって侑士があんまりくだらないことで悩んでるんだもん」
「くだらない……?」
自分の懊悩を、「くだらない」の一言で括られてむっとする。
「何をして岳人はくだらない云うん」
「詳しくは判らないけど、でも絶対くだらないね」
やや喧嘩腰の忍足に岳人も負けてはいない。
他人に何が判るというのか。そう口にしようとした時、それより先に岳人が云う。
「だって、跡部が自分で決めることもすることも全部、侑士が勝手にかっこつけて取り上げてるんだもん」
岳人は忍足に向き直り、頭半分ほど上にある忍足の眼を見上げた。
「なんで云わないの?跡部が欲しい、て。云ったからって侑士の何が変わるでも跡部の何かが失くなる訳でもないのに」
「岳人……」
「侑士は考えすぎなんだよ。自分の気持ちに正直に云えばいいじゃん。それでどうするのかは跡部が考えることで、侑士の担当じゃないよ」
眼が覚める思いがした。岳人の言葉に、ぱちんと目の前で叩かれたような感覚。
考えすぎだと岳人は云う。そうなのだろうか。岳人の云うように、自分は余計なことまで背負いこもうとしていたのか?
「侑士が気にしなきゃならないことはただ一つ」
忍足が珍しく黙って聞いていることに気を良くした岳人は、得意気に指を一本指し示した。
「跡部に振られないかどうかだけ、心配してればいい」
悪戯っぽく笑う相棒の言葉に、忍足は今度こそ毒気を抜かれて、思わず吹き出してしまった。その態度に岳人はむっとして、
「何だよ、人が折角アドバイスしてやってんのに」
面白くない、といった様子で不貞腐れたように唇を尖らせる。
ある日この「毒」を不可抗力とはいえ手に入れて以来、俺はずっと悩んでいる。
使うべきか、使わざるべきか。
どっかの名台詞ではないけれど、それくらいに考え続けているが未だ答えは出ない。このままでは衝動的に使ってしまいそうで怖い。呑めば彼をころしてしまうかもしれないのに。そう、頭では判っているのに、それでもこの気持ちを抑えることは難しくて、時折焼き切れそうになりながら笑 顔の下、押し殺している。
でももうそろそろ限界だ。自分を見失う前に、どうするかを決めなくてはならない。
使うべきか、使わざるべきか。
――――なあ、跡部、どないしよう。
好きだと告白してから二ヶ月が過ぎた。
だからと云って、特に何が変わったということもなく、相変わらずな日々を過ごしている。ただ、時折跡部が物云いたげにこちらを窺う回数が増えたように思う。視線を感じて振り向くと、そこには大抵跡部が居て、彼が自分を見ているという事実に喜んで笑っては、顔を顰めてそらされるということを繰り返していた。
そして、今も。
「ああ、また振られてしもうた……」
重なった視線を外し、跡部は部員指導のためにレギュラーコートを出て行ってしまった。背中を向けた跡部は決して振り向かない。それを痛いほど知っているので、思わず切ない溜息が洩れた。
「んー?何、また跡部のこと?」
聞こえていたのか、岳人が忍足の元へやって来る。
「……なあガックン、跡部は俺んことどない思ってるんやろか」
たいして返事は期待していなかったのだが、意外にもまともな意見が出た。
「どうもこうも。侑士がはっきりしないから困ってんじゃねえの」
実にあっさりと確信を突いてくる。忍足は少し言葉に詰まりながら、
「そないなこと……」
「ないって云うわけ?ほんとに?」
岳人の追求は容赦がない。忍足にしても自覚がある分何を云っても言い訳にしかならないことを悟って黙るしかなかった。
「侑士はさ、跡部に告白してそれで一応気は済んだのかもしれないけどさ、跡部にしてみれば云い逃げもいいとこじゃん。好きだって云われてそれだけで何も云わないのって、単に気持ちの押し付けだろ?侑士、一度でも跡部の気持ち、聞いたことあんのかよ」
「…………ない」
「だろ?押し付けるだけ押し付けてそのままなんて、跡部が可哀想だ。侑士が動かねえと、跡部もどうしようもねえし、……侑士だって、辛いだろ、ずっとこのままじゃ」
岳人の言葉に揺さぶられる。岳人の云うことはもっともで、跡部に気持ちを託して何も云わなかったのは自分の臆病さ、意気地無さゆえ。本当は、告白だってする気はなかったのだ。けれど、堪えられなかった。余りの恋しさに、ただ友人で在ることにすら苦痛を感じるほど。彼を引きずり込む勇気も、巻き込んだ責任を取ることも躊躇うくせに後先考えずに告げてしまった。今の自分は、友人ですらない、むしろ跡部に混乱を与える存在に過ぎない。そんなこと、一度だって望んだことはなかった。
ただ、彼を好きなだけなのに――――。
跡部が否定しなかったことに愚かにも喜んで、浮ついて、一度だって彼の気持ちなど考えなかった。自分のことにいっぱいいっぱいで、跡部がどう思うかなんて気付きもしなかった。
忍足は跡部が去った方向を振り向く。
こんなに好きなのに、どうしたらいいのか判らない。彼に、どう云えばいいのか思い付かない。
忍足は視線を下げ、自分の爪先を見つめた。
最初は見詰めるだけでいいと思った。そしたら次第に触れたいと思うようになった。あの綺麗な髪に、シミ一つない滑らかな肌に、凍てつくほどに冴えた碧眼に、自分だけを映してみたかった。でも同時に、そんなこと願うだけ無駄だとも思った。跡部は決して自分を受け入れないだろう。男同士なんて、不自然もいいとこ。こんな生産性もない先行きさえ見えない道は、彼に相応しくない。そう考えて、黙ってた。
けれど本当は、自分が怖かっただけ。自分自身が酷く怖かった。信じられなかった。まさか、自分が男を好きになる日が来るなんて思わなかったから。何かの間違いだと何度も思った。でもその度に思い知らされる。跡部を見る度に、声を聞く度に、彼が好きだと、愛しいのだと、理性を裏切って心が叫んで跡部を求めるのだ。
それを思い知って、ああもう駄目だと、この気持ちからは逃げられないのだと観念した途端、急に怖くなった。
自分は、いい。もう引き返せないほど深みにはまった自分は、もう進む道しか残されていない。だから、いい。苦しくても、自分が決めたことだから。でも、跡部は違う。彼には沢山の選択肢があって、どれを選んでも跡部に相応しい未来が待っている。でももし、それを自分が潰してしまったら?自分のエゴで、跡部も自分と同じ道を歩くことになったら?
忍足には、跡部にすべてを引き替えにしても悔いはないと思わせられる自信がなかった。
自分は跡部が居ればそれでいい。けれど跡部は?
忍足はそんな考えに捕われて、跡部に何も云えなかったのである。
岳人は、暫く黙って忍足の様子を眺めた後、勢い良く忍足の胸を叩いた。
「――っつ、何すんねん岳人!」
あまりにも突然だったため見事に入り、衝撃に一瞬息が詰まる。胸を抑え、岳人を睨み付けた。
対する岳人は飄然としたもので、手にしていたラケットを頭の後ろに固定し伸びをする。
「だって侑士があんまりくだらないことで悩んでるんだもん」
「くだらない……?」
自分の懊悩を、「くだらない」の一言で括られてむっとする。
「何をして岳人はくだらない云うん」
「詳しくは判らないけど、でも絶対くだらないね」
やや喧嘩腰の忍足に岳人も負けてはいない。
他人に何が判るというのか。そう口にしようとした時、それより先に岳人が云う。
「だって、跡部が自分で決めることもすることも全部、侑士が勝手にかっこつけて取り上げてるんだもん」
岳人は忍足に向き直り、頭半分ほど上にある忍足の眼を見上げた。
「なんで云わないの?跡部が欲しい、て。云ったからって侑士の何が変わるでも跡部の何かが失くなる訳でもないのに」
「岳人……」
「侑士は考えすぎなんだよ。自分の気持ちに正直に云えばいいじゃん。それでどうするのかは跡部が考えることで、侑士の担当じゃないよ」
眼が覚める思いがした。岳人の言葉に、ぱちんと目の前で叩かれたような感覚。
考えすぎだと岳人は云う。そうなのだろうか。岳人の云うように、自分は余計なことまで背負いこもうとしていたのか?
「侑士が気にしなきゃならないことはただ一つ」
忍足が珍しく黙って聞いていることに気を良くした岳人は、得意気に指を一本指し示した。
「跡部に振られないかどうかだけ、心配してればいい」
悪戯っぽく笑う相棒の言葉に、忍足は今度こそ毒気を抜かれて、思わず吹き出してしまった。その態度に岳人はむっとして、
「何だよ、人が折角アドバイスしてやってんのに」
面白くない、といった様子で不貞腐れたように唇を尖らせる。