手袋を買いに
とある冬の日、一人の男が手袋屋を訪れた。
初めての来店らしく興味深げにぐるりと店内を見回しながら、男は帽子を脱いでカウンターの上にそれを置いた。
色白の背の高い男だった。細長い体を裾の長いコートで包み、洒落た形にマフラーを巻いている。カウンターに乗せられた手指は、冷えきったせいか少しばかり赤らんでた。
「この手に合う手袋をください」
低い声は静かな店にじんと響いた。
店主はいつものように客の手に視線を向けると、すぐに黙って胸の高さにある引き出しから一つの箱を取り出した。中に納まっていたのは羊皮で作られた黒手袋だった。薄くしなやかに加工された男性向けの定番商品だ。
しかし差し出された手袋を見ると、男は今までこの店の客が誰一人としてやったことのない行動に出た。
「それではありません」
ゆるり首を横に振り、手に取ろうともしなかったのだ。
店主は眼鏡の奥の目を一度だけぱちりと大きく瞬かせると、それ以上の動揺を見せることなく皮手袋と箱をカウンターの下に収めた。
そして気を取り直したように再度棚に向かい、今度はこめかみ辺りの高さの場所から同じような黒い箱を取り出した。
「それでもありません」
現れたムートンの手袋も言下に否定された。
店主はやや考えるような目付きになり、出したものを機械的にカウンターの下に収めた。磨いたように綺麗な爪をした男の手は、貼り付いたようにカウンターの天板にきちんと並んでいる。
店主はゆっくりとまた棚に向かったが、結果は同じだった。毛織の手袋も、礼服用の布手袋も、男は触れようとすらしなかった。
「違います」
穏やかに、しかしきっぱりと男は繰り返す。言葉を紡ぐ唇以外、身動ぎもしないまま。
幾つ目になるかわからない手袋の箱にそっと蓋を被せながら、店主はいつになく厳しい口元をしていた。今までに間違えたことは一度も無い。どの手袋も確かにこの男の手に合う筈だ。それでも、客である男は否定する。試着すらせずに。
まるで、目的の手袋の姿がはっきりとわかっているかのように。
「この手にぴったりと合う手袋なんです」
店主の困惑を察したのか、男がまた口を開いた。噛んで含めるような言い方に店主の中に一筋の緊張が走る。
「この店にあると聞きました」
そう言って男はカウンターから右手を持ち上げた。
店主の視線が、握手を求めるように伸ばされたそれと男の顔との間を行き来する。二度、三度。
「貴方にならわかる筈です。この手にぴったりの手袋なんです」
こくり、と渇いた喉に唾を押し込むと、店主は殊更に時間をかけて己の手から白い布手袋を外した。
微かに震える素のままの手で、店主は差し出された男の手を捧げ持つように触れた。
「…っ!」
途端、びくりと店主の体が震えた。
息を飲んで客を見返す目は見開かれ、最早隠し切れぬ動揺がありありと浮かんでいた。
「まさか…」
恐ろしいものに触れたとばかりに手を引いて後退りする店主を、男は一向に変わらぬ目付きで見つめている。
静かな視線。しかし、そこにじっとりと肌にまとわりつくような気配を感じ取って、店主はもう一度喉を鳴らした。
「もう、おわかりになりましたね」
「アレは売り物ではございません。こちらで預かっているだけのものです」
「知っています」
掠れた店主の声に含まれた意図など知らぬ顔で男は頷いた。
「僕は手袋を買いに来たとは一言も言っていませんよ」
まるで笑うように、男は目を細めた。
それは決して笑顔ではなかったが。
「僕は取り返しに来ただけです。この手にぴったり合う手袋を。さぁ、出してください」
今度差し出された手の意図は明確だった。店主は壁の棚に背を預けたまま、じっとりと汗ばんでいく体を支えることしかできずにいる。
ゆらり、男の周りの空気が青く揺らめいたように見えた瞬間。
── ジリリリリリリリッ!!
けたたましい電話のベルが鳴り響いた。
電子音ではない旧式の電話だけが持つ騒がしさに弾かれたように、店主は動いていた。
「はい。あ、えぇ、そうです。はい、──はい、わかりました」
短い受け答えの後、店主が受話器を戻すとこれまた古風なチン、という小さな音が店内に響いた。
ずっと逸らされずにいる男の視線から逃れるように、店主はカウンターの下へ身を屈める。
「お譲り、いたします」
立ち上がった店主の手に小さな鍵が握られているのを見て、男は先ほどとはまた違う意味合いで目を細めた。
店主はあくまでもカウンターの外へ目を向けないまま、一つの引き出しを開いてその奥へ手を入れた。カチリ、という音と共に棚の一角がスライドして隠し棚が現れる。
もう一度白い布手袋を着けると、店主は慎重な仕草で棚の中に収められていた箱を取り出し、男の前に置いた。いつもの引き出しから現れるものよりも幾分深さがあり、大きさも大きい。
男が食い入るように見つめる中、店主はその蓋を持ち上げた。
「…あぁ」
感嘆の声と共に、男は満面の笑みを浮かべた。
収められていたのは、切り落とされて干乾びた女の手首が一対。
ただし、断面から覗く内側は綺麗に刳り貫かれて骨も肉も無くなっており、ただその形だけを保って皮と爪ばかりになっている女の手だった。
「やっと…、やっと取り戻した」
躊躇うことなくそれらを取り上げると、男は急いたようにして断面の空洞に手を入れた。縮んだ皮に男の手が入るはずが無いと思われたが、どちらがどうなったのか、店主の驚きを嘲笑うかのように皮はするりと男の手を迎え入れていく。
その途端、がさがさに色を失っていた女の手に血の色が浮かんだ。
瞬く間に瑞々しい艶やかな肌を取り戻した皮手袋は男の本来の手に勝るとも劣らぬ生気を宿し、爪さえも塗り飾られたままの美しさを蘇らせていた。男の手首にはもう手袋と皮膚の境も見えない。彼の両手は、手首から先だけが入れ替わったかのように女の手になっていた。
ほぅ、と普段の客たちと同じ、惚れ惚れした溜め息が店主の耳に届く。男は変化した両の手を顔の前にかざして、うっとりとそれを見つめていた。
手の表と裏を何度も確認して満足そうに笑っていた男は、やがてそれらをそうっと自分の頬に押し当てた。
「母さん…」
囁かれた言葉が耳に入ろうとしたのを拒むように、店主はそっと目を伏せた。