Nemo enim potest omnia scire
1.
東京は雑多な都市だ。いろいろなものを抱擁し抱えている。最新ファッション、サブカルチャー、電化製品に立ち並ぶオフィス。人ごみ、行きかう声。
田舎から出てきた竜ヶ峰帝人にとっては刺激が強い。開放的な自然とは対照に、田舎では覆い隠されていた様々な薄暗いことがらが、この街では非常にオープンだ。
たとえば、目の前の光景。
帝人は同性同士の恋愛を、知識としては理解していた。ダラーズの首領としてふるまうなか、ネットから得られる情報に性知識がなかったとは言えない。
「あれ、帝人くん」
深夜、バイト帰りのいつもの道。すえたにおいが漂うなんの変哲もない路地。そこで数瞬前に繰り広げられた、男性同士の濃厚なキスシーン。しかも、片方は見知った人物。
帝人は正直、めんくらってしまっていて、口づけをほどいてこちらに顔だけ向けた知り合いに、声を掛けられても反応できずにいた。
「こういうの耐性なかったりする? ごめんねー」
折原臨也だった。濃厚な口付けを交わしていた、帝人にとっては見知らぬ人物を見送って、軽い足取りであゆみよる。友人から忠告を受けた『関わってはいけない人間』。得体がしれない、非日常の体現。
「いえ、そんな! 偏見とかは全く持ってないので! 本当に!」
帝人がやっとのことで絞り出した声はかすれていて、臨也は興味深げに目を細めた。パーソナルスペースを無遠慮に踏み壊し、臨也はもう一歩歩み寄る。
「じゃあ試してみる?」
「えっ」
するりと伸びたきれいな指が、帝人の腰骨の輪郭をなでさする。おもわず身体が跳ね、臨也の声色が夜を描いて笑う。
「なんだ帝人くん、感度いいんじゃない?」
「なっ、ちょっ、臨也さん!?」
「ね、気持ち良いことしてみない?」
つめたい身体が帝人にすり寄り、ベルトの金具に指がかかる。カシャリと、金属音が路地裏に跳ねた。
気付いたら帝人はベッドに一人仰向けに転がっていた。抑えられた照明、落ち着いた色味の家具。いまは何時だろうか?
(ラブホテルってもっと、どぎつい色合いかと思ってた)
視線をさまよわせ、携帯電話をみつけた。午前三時。臨也の姿は部屋にない。
起きたら隣に知らない誰かが、しかも自分に記憶がない! なんて都市伝説はよく聞くが、むしろ記憶が飛んでいてくれたらと切実に願う。が、帝人の脳内にそれはくっきり残っていた。
ねちっこかった。でも正直言うなら気持ち良かった。よすぎた。知識としてならあった、口には出して言えないそれらをフルコースで味わい、帝人はまさしく精も魂も尽き果てたといった風情だった。
「なに考えてるんだあの人」
この状態でなにを、と言われるかもしれないが貞操は守り抜いた。前も後ろも。しかし、徹底的に気持ち良くさせられた。臨也に強引に連れ込まれた……いや、流されたので、帝人は別に引け目を感じるわけではない。ただ、茫然としているというのが正直なところだ。
(これも人間観察の一部なのかな)
なんとはた迷惑な。帝人は重く長く息を吐き出した。あの人の思考回路が分かる日なんて一生来ないだろう。
とりあえずパンツ、と帝人はのっそり起き上がった。
2.
折原臨也は人への愛で構成されている。愛すなわち関心、臨也は愛する人間のことが知りたくて知りたくて、いろんなことに手を伸ばした。
もちろん臨也の審美眼にかなわない人間もたくさんいた。しかし、臨也は愛する人間のために労力を惜しまなかった。だから、老若男女のふところ深くに手を突っ込んで曝け出すときに、結果、体の関係を求められるのは分かり切ったことではあった。つまり、臨也は世間体にはバイセクシャルと呼ばれる位置にあった。臨也自身はそう言われることに違和感を感じてはいたが、それが結果一部の人間との接触を容易にしたのでありがたく利用した。
たとえば、平和島静雄という人間がいる。その人間の枠を超えた驚異的な肉体は非常に興味深いものであったが、虫けらのように嫌われている上に、こちらにも興味を凌駕した嫌悪の情が先にたつ。
(そのうち女手でもあてがって調べてみたいな)
本人に聞かれたら自販機とガードレールと交通標識その他もろもろがフルコースで飛んできそうな台詞であるが、思考は自由だ。なんて素晴らしい。
そしてもう一人。折原臨也には今、興味を引かれている人間がいる。
街灯が一斉に輝き、カラオケ屋や飲み屋の客引きが姿を表した頃、臨也はアルティオリのスーツを油断なく着こなした四十台の男性に声をかけられた。路地裏に入り、腰に緩やかに回された手に鼻白みながら、まずはおとなしくついていくことにする。
臨也が活動域としている街から離れ、ちらほらと立つ『売り』の人間に紛れ込めば、大概臨也は数分で声を掛けられた。己の秀麗な容姿は十分すぎるほど把握している。
スーツは高級物、ただしオーダーメイドではない。髪は根元からしっかり染められているし、プレスの利いたシャツにも隙はない。腕時計はロレックス。
もちろん、臨也は何の考えもせずに街に紛れたわけでなければ、適当に男に身を任せたわけでもない。とあるネット掲示板で自慢げにコンサルティング説を語る男に興味を持ったのだ。少し情報網をたどれば簡単に男のスケジュールは手に入り、一通りのプロフィールも把握した。
臨也が最近興味を持って、接触を図っている人物の一人に、ダラーズの創始者がいる。名前は竜ヶ峰帝人。詳細を問われればその人となり、興味深いその思考回路の飛躍の傾向について臨也は小一時間語ることができる。
先日路地裏で遭遇したことを彼は偶然と思っているようだがそんなことはない。もちろん臨也の想定の上だ。ネット社会に頭からつま先まで漬かっているくせに、性に絡む事柄には疎い少年に、わざと同性のキスシーンを見せ、動揺を煽ってホテルに連れ込んだ。
未成年に対する淫行行為で警察のお世話になりそうなことを散々して臨也は帝人を一人ホテルに残したわけだが、それからしばらくの時を経て、邂逅は回数を重ねていた。普段の臨也を知るものなら意外に思うことだろう。
手近なホテルまでの道のりを、軽い会話でやり過ごす。紳士然とした仮面の奥にある、他人を見下してかかった目線。それとは裏腹に臆病な性格。その人間を構成するひとつひとつを、臨也は丁寧に拾い、脳内の人物ファイルに書き込みを増やしていく。
流れるように男が臨也を案内した先は、従業員と顔を合わせないで済むタイプのホテルだった。使用にも慣れているのだろう、手つきには淀みがない。人のことは言えないが。
帝人の反応は初心の一言に尽きるが、その心の動きはまた格別に面白いものだった。青少年らしい性への興味もあるだろうが、彼が一番最初に誘いに乗ったのはそれを因としたわけではないだろう。
非日常への異常なまでの執心。それに尽きる。
普通男同士ということに嫌悪や違和感を抱きそうなものだが、目の前にぶら下がった非日常という餌に少年は簡単に喰いつき、身を晒した。
最初は快楽に翻弄され、まともな思考ができていなかったようだが、最近は漸く立ち回りを気にし始めたようだった。
(楽しいなあ、愛しいなあ人間ってやつは!)
東京は雑多な都市だ。いろいろなものを抱擁し抱えている。最新ファッション、サブカルチャー、電化製品に立ち並ぶオフィス。人ごみ、行きかう声。
田舎から出てきた竜ヶ峰帝人にとっては刺激が強い。開放的な自然とは対照に、田舎では覆い隠されていた様々な薄暗いことがらが、この街では非常にオープンだ。
たとえば、目の前の光景。
帝人は同性同士の恋愛を、知識としては理解していた。ダラーズの首領としてふるまうなか、ネットから得られる情報に性知識がなかったとは言えない。
「あれ、帝人くん」
深夜、バイト帰りのいつもの道。すえたにおいが漂うなんの変哲もない路地。そこで数瞬前に繰り広げられた、男性同士の濃厚なキスシーン。しかも、片方は見知った人物。
帝人は正直、めんくらってしまっていて、口づけをほどいてこちらに顔だけ向けた知り合いに、声を掛けられても反応できずにいた。
「こういうの耐性なかったりする? ごめんねー」
折原臨也だった。濃厚な口付けを交わしていた、帝人にとっては見知らぬ人物を見送って、軽い足取りであゆみよる。友人から忠告を受けた『関わってはいけない人間』。得体がしれない、非日常の体現。
「いえ、そんな! 偏見とかは全く持ってないので! 本当に!」
帝人がやっとのことで絞り出した声はかすれていて、臨也は興味深げに目を細めた。パーソナルスペースを無遠慮に踏み壊し、臨也はもう一歩歩み寄る。
「じゃあ試してみる?」
「えっ」
するりと伸びたきれいな指が、帝人の腰骨の輪郭をなでさする。おもわず身体が跳ね、臨也の声色が夜を描いて笑う。
「なんだ帝人くん、感度いいんじゃない?」
「なっ、ちょっ、臨也さん!?」
「ね、気持ち良いことしてみない?」
つめたい身体が帝人にすり寄り、ベルトの金具に指がかかる。カシャリと、金属音が路地裏に跳ねた。
気付いたら帝人はベッドに一人仰向けに転がっていた。抑えられた照明、落ち着いた色味の家具。いまは何時だろうか?
(ラブホテルってもっと、どぎつい色合いかと思ってた)
視線をさまよわせ、携帯電話をみつけた。午前三時。臨也の姿は部屋にない。
起きたら隣に知らない誰かが、しかも自分に記憶がない! なんて都市伝説はよく聞くが、むしろ記憶が飛んでいてくれたらと切実に願う。が、帝人の脳内にそれはくっきり残っていた。
ねちっこかった。でも正直言うなら気持ち良かった。よすぎた。知識としてならあった、口には出して言えないそれらをフルコースで味わい、帝人はまさしく精も魂も尽き果てたといった風情だった。
「なに考えてるんだあの人」
この状態でなにを、と言われるかもしれないが貞操は守り抜いた。前も後ろも。しかし、徹底的に気持ち良くさせられた。臨也に強引に連れ込まれた……いや、流されたので、帝人は別に引け目を感じるわけではない。ただ、茫然としているというのが正直なところだ。
(これも人間観察の一部なのかな)
なんとはた迷惑な。帝人は重く長く息を吐き出した。あの人の思考回路が分かる日なんて一生来ないだろう。
とりあえずパンツ、と帝人はのっそり起き上がった。
2.
折原臨也は人への愛で構成されている。愛すなわち関心、臨也は愛する人間のことが知りたくて知りたくて、いろんなことに手を伸ばした。
もちろん臨也の審美眼にかなわない人間もたくさんいた。しかし、臨也は愛する人間のために労力を惜しまなかった。だから、老若男女のふところ深くに手を突っ込んで曝け出すときに、結果、体の関係を求められるのは分かり切ったことではあった。つまり、臨也は世間体にはバイセクシャルと呼ばれる位置にあった。臨也自身はそう言われることに違和感を感じてはいたが、それが結果一部の人間との接触を容易にしたのでありがたく利用した。
たとえば、平和島静雄という人間がいる。その人間の枠を超えた驚異的な肉体は非常に興味深いものであったが、虫けらのように嫌われている上に、こちらにも興味を凌駕した嫌悪の情が先にたつ。
(そのうち女手でもあてがって調べてみたいな)
本人に聞かれたら自販機とガードレールと交通標識その他もろもろがフルコースで飛んできそうな台詞であるが、思考は自由だ。なんて素晴らしい。
そしてもう一人。折原臨也には今、興味を引かれている人間がいる。
街灯が一斉に輝き、カラオケ屋や飲み屋の客引きが姿を表した頃、臨也はアルティオリのスーツを油断なく着こなした四十台の男性に声をかけられた。路地裏に入り、腰に緩やかに回された手に鼻白みながら、まずはおとなしくついていくことにする。
臨也が活動域としている街から離れ、ちらほらと立つ『売り』の人間に紛れ込めば、大概臨也は数分で声を掛けられた。己の秀麗な容姿は十分すぎるほど把握している。
スーツは高級物、ただしオーダーメイドではない。髪は根元からしっかり染められているし、プレスの利いたシャツにも隙はない。腕時計はロレックス。
もちろん、臨也は何の考えもせずに街に紛れたわけでなければ、適当に男に身を任せたわけでもない。とあるネット掲示板で自慢げにコンサルティング説を語る男に興味を持ったのだ。少し情報網をたどれば簡単に男のスケジュールは手に入り、一通りのプロフィールも把握した。
臨也が最近興味を持って、接触を図っている人物の一人に、ダラーズの創始者がいる。名前は竜ヶ峰帝人。詳細を問われればその人となり、興味深いその思考回路の飛躍の傾向について臨也は小一時間語ることができる。
先日路地裏で遭遇したことを彼は偶然と思っているようだがそんなことはない。もちろん臨也の想定の上だ。ネット社会に頭からつま先まで漬かっているくせに、性に絡む事柄には疎い少年に、わざと同性のキスシーンを見せ、動揺を煽ってホテルに連れ込んだ。
未成年に対する淫行行為で警察のお世話になりそうなことを散々して臨也は帝人を一人ホテルに残したわけだが、それからしばらくの時を経て、邂逅は回数を重ねていた。普段の臨也を知るものなら意外に思うことだろう。
手近なホテルまでの道のりを、軽い会話でやり過ごす。紳士然とした仮面の奥にある、他人を見下してかかった目線。それとは裏腹に臆病な性格。その人間を構成するひとつひとつを、臨也は丁寧に拾い、脳内の人物ファイルに書き込みを増やしていく。
流れるように男が臨也を案内した先は、従業員と顔を合わせないで済むタイプのホテルだった。使用にも慣れているのだろう、手つきには淀みがない。人のことは言えないが。
帝人の反応は初心の一言に尽きるが、その心の動きはまた格別に面白いものだった。青少年らしい性への興味もあるだろうが、彼が一番最初に誘いに乗ったのはそれを因としたわけではないだろう。
非日常への異常なまでの執心。それに尽きる。
普通男同士ということに嫌悪や違和感を抱きそうなものだが、目の前にぶら下がった非日常という餌に少年は簡単に喰いつき、身を晒した。
最初は快楽に翻弄され、まともな思考ができていなかったようだが、最近は漸く立ち回りを気にし始めたようだった。
(楽しいなあ、愛しいなあ人間ってやつは!)
作品名:Nemo enim potest omnia scire 作家名:カミムラ