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Nemo enim potest omnia scire

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 どんな顔を見せてくれるのだろうか? ベッドに俯せ、臨也は考える。ロレックスが鈍くきらめく。この男の、人間の情報を収集しつくし、そして忘れる。

 人間は愛しい。臨也は人間のすべてが愛しい。把握したい。もっと知りたい。複雑で、矮小で、理論的なようで破綻しているその思考のすべてを。
 
 笑みを浮かべた臨也に、彼の愛しい人間の手が伸びた。


3.
 意識的に噂話を集め、情報の海を泳げば、臨也の性的な奔放さは耳に付いた。
 男女タチネコ関係なく。さすがに相手は選んでいるらしく後腐れない付き合いが大半。何人かしつこく纏わりつく人間もいたようだが、その後の話がぷっつり途絶えてしまっているあたり、臨也は上手く立ち回っているのだろう。
(人間観察の一環なんだろうけど、なんで僕だったんだろう)
 帝人はいまだにその理由がわからないでいた。あの日から数度、場所を変え時間を変え顔を合わせるようになった今も。
 複数立ち上げていたブラウザを纏めて閉じ、帝人は目的もなくデスクトップを眺めた。
 臨也が言ったように、確かに非日常の塊のような体験だった。回数を重ねるうちに、帝人は人間の体が秘める神秘に驚かされることしきりだ。
 数度にわたる邂逅の中、なぜか最後まで行為が及ぶことはなかった。しかしあの触れ合いには、どこか苦い、うしろめたい甘さがあった。
 画面がスクリーンセーバーに切り替わる。クーラーが無い部屋にパソコンの排熱は篭り続け、額に滲んだ汗が首へ滑り落ちてくる。
 数日前の真昼間には、こんな風に暑い部屋でなだれ込むように行為に及んだ。汗なんか無縁に思える臨也の鎖骨に汗が溜まるのを、帝人は不思議な心地で見つめていた。
 僕の何に興味を持ったのだろうか。ダラーズの創始者、そこに間違いはないだろう。でも何故こんな手段で? 都心の虚ろに身を浸した後では人の体温は心地よいだけで、しかし燻る熱を残していく。
(ボロい家で汗まみれになってみたかっただけかも)
 自嘲の笑みすら空しい。帝人は小さく膝をまとめ、顔を埋めた。あつい。着替えてすらいない制服に汗がじわりとしみ込み、蝉の声が落ちる。
 僕を掴んであちこちつれ回して、そしていつ手放されるのだろうか。
(だったら)
 帝人はなけなしの、一握りだけ残ったプライドを掻き集めた。それは決意というほど高尚なものでなく、滑稽な足掻きに過ぎないことは自覚していた。
 

4.
 竜ヶ峰帝人は自覚していないだろう。
 己から与えられる快楽と、好意と、非日常に対する憧れを混在させてしまっていることに。
 少年の抱く非日常と日常のバランス。それは全く不釣り合いなようで、彼のなかではなんら破綻のない出来事なのだろう。たとえ他人がそれを見て、恐怖に近い違和を感じたとしても。
 そして折原臨也は、整理整頓が非常に上手い人間だった。

※ ※ ※

 帝人が部屋のドアを開けるなり、臨也はその口にアイスを突っ込んだ。
 目を白黒させ、しかし大人しくチョコレートバーを齧る帝人に、悪びれずに今日の暑さなど語る臨也は憎たらしいほどいつもどおりだ。
「ちょっと待ってて、仕事残ってるから」
 どう見ても一箱に六本は入っていそうなアイスを埋め合わせに使うあたり、臨也は案外貧乏性なのかもしれない。告げてデスクに向き直った臨也を待ち続けて暫し、帝人は手持ち無沙汰になってアイスの棒をがりがり噛んだ。
「なに、欲求不満?」
 大した音でもないだろうに、臨也はすぐに真新しい反応に気付いた。笑い、パソコンの電源を落とす。臨也は単純に感心していた。
(最初は随分初な反応してたけど、やっと色気が出てきたかな?)
「――そうかもしれませんね」
(おや、素直)
 帝人は歯型のついたアイスの棒をごみ箱に落とすと、未だにパソコンデスクに向き合ったままの臨也の隣に立った。
「終わったんですよね、仕事」
「うん、今日の分はもうおしまい」
 臨也も立ち上がり、帝人の肩に後ろからぶら下がるように体重を掛けた。いきなりの重さに帝人がよろける。
「臨也さん! 重いですって!」
「えー、愛を感じないなあ」
「…………」
 押し黙る。
 帝人が煩悶を重ねていることなど、臨也は重々承知だった。この少年が稀に見る屈折した思考をしていることも。その精神が生んだ答えこそが、最近の臨也の一番の関心事だ。
「臨也さんはすごく薄情な人ですよね、」
 わかってるんです。わかってる。
 既知を主張する少年のはかない抵抗を鼻で笑うも、帝人は言葉を続ける。
「臨也さんばっかり、僕のこと知ってるのもずるいと思ったんで」
「俺を探った?」
「わかりませんでした。わからないことばっかりです」
 帝人は俯き、その表情を探らせようとしない。
「でも、わかってます、それでもこうなったんですから、我儘は言いません。
 今まで通りでいいんです。臨也さんは僕を探っててください」
 だけど君は知られることを嫌がってる。ほら、今も。
 臨也の愛はすなわち知ることで、けれどこの少年は知を拒絶した。なのに愛してくれと乞うている。また矛盾だ。
 田舎から出てきた高校生。お遊びで立ち上げたダラーズが拡大するなか、立ち回り続けた創始者のひとり。非日常に憧れ、そのためなら物事の善悪を厭わない危うさがある。
 臨也は今でもすらすらと竜ヶ峰帝人のプロフィールを諳んじることができる。たいていの一日のスケジュール、性格の傾向。
 けれど、目の前の竜ヶ峰帝人は、臨也にその奥を探らせようとしない。下唇を噛み、視線をそらす仕草に潜む快楽の所在を、たしかに探り当てたはずなのに。
 アイスの棒を噛む歯の白さは、最初に唇を重ねたときにちゃんと見つけていた。けれどその瞳に映る苛立ちの理由を臨也は知らない。
 最初に誘いを掛けたとき、嫌そうに顔をしかめながらも瞳の奥に潜めた期待があった。それを探りながら、臨也は後ろから帝人の目を覗きこむ。
 黒い瞳孔と茶色い光彩。竜ヶ峰帝人の知らない一面。
 ぞくりとする。
(ああ、やっぱり人間は愛しい! 楽しい!)
「普段は出来る限り相手の意向に合わせてあげるんだけどさぁ、やーめた」
 囲いこむ腕に力を込める。帝人が伏せた顔を振り仰ぎ、答えを待つ。
 知りたい。知りたい。知りたい。
 それはたしかに臨也の人間愛の根源で、けれど何かが違う。
「君に突っ込みたいんだ。君が女の子みたいに喘いでるのを聞きたい。君が快感でドロドロになった顔を見たい。気持ちいいことしか考えられないようにしたい。
 ねぇ、抱かせてよ帝人くん」
 知ってほしい。俺を突き動かすこの知の衝動を。

5.
 明けた夜に浮かぶ部屋の暗さに、臨也は静かに目を瞬かせる。目覚めの生理的な反応ではなく、思考の整理のために。
 竜ヶ峰帝人の子細な反応のすべて。虚ろな目に蘇った熱情の行き先や、仰ぐように伸びた不健康な腕が震えたこと。
 それらをすべて脳内で反芻して、整理して、折原臨也は、

(終)
作品名:Nemo enim potest omnia scire 作家名:カミムラ