恋を思って死ねたなら
9.
「今日はね、こういう曲を歌ってもらうからねー!」
マスターのはつらつとした声がレンの耳朶をつく。勢いよく差し出された楽譜と、それに書かれた歌詞を眺め見て、レンはそっと息を吐いた。隣に立つ、一緒にマスターの部屋へ呼び出されたカイトが、同様に楽譜を受け取り嬉しそうに笑う。
「なんだか綺麗な歌詞ですね。言葉の一つ一つが、意味をもっていて、美しいように思えます」
「そうかなあ。今回の歌詞は頑張って書いたからね。ありがとう、カイト」
マスターがはにかみながら、そっと首をかしげて笑う。カイトの瞳がそっと細くなり、唇からやさしげな低音がこぼれだす。
「頑張って歌いますね」
カイトの声を耳に聞きながら、レンはぼんやりと歌詞の内容を把握していく。なんてことのない日常を歌った詩の内容に、自身の表情にかげりが指すのをレンはひしひしと感じた。
マスターは恋の歌を書かなくなった。
紛れもなく、レンのせいなのだろう。マスターの歌詞を読んで、レンが痛いことを恋だと思い込んだために壊れかけるまでに至った出来事があってから、マスターは恋を歌わせることが無くなった。
そっと視線を上げると、カイトの瞳と目が合う。カイトはこっそりとレンに向けて微笑むと、そのまま部屋を出て行ってしまった。マスターの自室に、レンとマスターだけが残される。
何かを言おうと口を開くが、言葉は音にならず、レンの唇から出てこない。喉がはりついたようだった。息をするのも難しい。治療されてから、レンはマスターと上手く話すことが出来なかった。
「レン」
マスターが柔らかな声でレンの名前を呼ぶ。レンの肩が、びくりと震えた。それを押し隠すようにレンは笑顔を浮かべてマスターを仰ぎ見た。マスターが呼応するように笑顔を浮かべた。優しい笑顔。花が開くような笑顔とはこのことだと、レンは思う。優しくて、暖かくて、そして、切ない。
マスターの笑顔を見ると、レンは胸がきゅっとすぼまるような心地がした。
「今回はレンとカイトのツインボーカルな曲だから、頑張って歌ってね」
「…………」
いつものようなマスターだった。何故か、レンは胸の中に煮え湯を注がれたような気分の悪さを覚えて、どうしようもなく、おしだまる。
マスターを見ると、胸が痛くなるのを、レンはまだ誰にも言っていない。
「私も頑張って調整するから」
この痛みは、なんなのだろうか。痛みは恋ではない。だからきっと、この痛みは、また壊れかけているという危険信号なのかもしれない。
甘いじくじくとした痛みに、レンはそっと目を伏せ、一瞬後、笑みを浮かべてマスターを仰ぎ見た。
「ん! おれも、頑張るね」
「うん、頑張ろうね。一緒に」
マスターが笑う。レンも笑う。
柔らかな笑みを目の前に、もう一度胸がちくりと痛むのを感じ、レンは、いっそこの痛みで壊れられたらいいのに、と笑みを深くした。
(終わり)
2010/08/23
作品名:恋を思って死ねたなら 作家名:卯月央