恋を思って死ねたなら
「なおさなくていいよ」
震えた声が、ほとんど無意識的にレンの唇から飛び出る。そうだ。治さなくたっていい。治してしまったら、恋の気持ちを全て否定することになるじゃないか。なら治さなくたっていい。このままだと壊れると男が言っていたが、それでも良かった。今日のことは記憶から削除して、明日からはこの胸の痛みと共に生きていけばいい。この痛みは恋なのだと、そう思って生きていけば。
マスターが困ったように笑う。
「治さなかったら、レンは壊れちゃうんだから、治さなきゃいけないよ」
「壊れてもいい。壊れてもいいから……」
耐えるような声が出た。視界が滲む。涙が頬を伝う感触がした。一度あふれ出した涙は止まりそうにない。
「壊れても、いいから、なおさないで……」
「……痛いの、嫌でしょ?」
「痛いのは、恋だから。好きだから。マスターのことが好きだから痛いんだ。壊れてるからなんかじゃない」
マスターが表情に困惑を浮かべる。マスターを困らせているのは分かっていたが、自分でもどうしてこんなにもむきになっているのか、レンにはよくわからなかった。ただ、嘘だと、壊れかけているから痛かったのだと、そんな言葉で今までの感情を片付けられたくは無かった。
マスターの手の平が、レンの視界を塞ぐ。小さな声が耳朶をついた。
「恋は痛いだけじゃないんだよ……。幸せなことなんだから」
電源を切られたらしい。視界にシャットダウンまでの秒数が表示され、急速に聴覚から音が途切れていくのがレンにはわかった。無理にでも治されてしまうのだと実感すると共に、どうしようもない絶望が襲ってくる。
マスターに否定された。恋じゃないといわれた。マスターの言葉はレンの柔らかな心を強くえぐる。全身が、とりわけ胸のあたりが熱くなるのを感じた。よく感じていた、あの鋭い痛みとは違う、どこか鈍い痛みがレンの全身を襲っていた。
──幸せなこと。恋は幸せなことだと言っていた。
痛みが幸せではなかったのか、と問われたら、レンは首を振るしかない。幸せだった。痛みを感じるのが。恋をしているのだと実感することが出来たから、レンにとっては痛みが訪れるたびにどこか満足感が胸に広がるのを感じていた。恋をしているのだと、マスターが好きなのだと、痛みを感じるたびに言葉が胸に浮かび、それだけでぬるま湯につかるような、暖かで優しい感情を覚えた。
痛みは、この気持ちは恋だ。それなのにマスターは嘘だと言う。壊れかけているから痛みを感じるのだという。
だったら、マスターの笑顔が見たいと思ったことも、壊れかけていたからなのだろうか。嘘なのだろうか。レンにはよくわからなかった。
作品名:恋を思って死ねたなら 作家名:卯月央