闇に射る②
耳許で、脳裏まで響く声がした。
「その包帯、少しもらえないか」
善法寺伊作は目の前に横たわっている負傷兵をさする手を止めた。ゆっくりと振り返り、声がした方向を凝視したまま息をのんだ。
その男は、自分の15年分の不運を何倍も濃く煮詰めたような、深い闇を背負っていた。
(―――全く、気配がしなかった)
逆光で顔がよく見えないが、タソガレドキ軍の具足を纏った男がじっとこちらを見据えている。伊作に忍術を学ぶ者としての本能的な緊張感が走った。顔の横で聞こえた筈の声…しかしその声の主はそれよりも遥か後方に立っていた。
また、自分の欠点が出てしまった。
敵地にも関わらず、目の前の怪我人に気を取られ周囲が見えなくなっていた。
伊作は額を伝う汗が違う種類の物に変わるのを感じた。逃げようかとも思ったが、気配を完全に消す力を持つ程の男に完全に背後に立たれている以上、伊作はここから逃げることは不可能だと察知する。
伊作はゆっくりとつばを飲み込んだ。
一歩ずつ男がこちらに近づいてくる。炎天下などものともしない圧倒的な闇の塊が迫ってくるようだった。不運だ不運だと友人達と言っている自分の陰気など、この闇の前ではちっぽけで赤子のようなものだ。
しかし、伊作は目の前の男に絶対的な恐怖を感じているにもかかわらず、その闇への不可思議な高揚を感じる。わかりやすく言うならば同族意識に近いものだった。余裕なんてないはずなのに、伊作はこの状況下でこんな事を考えている自分が可笑しかった。喉の奥から恐怖と興奮のうねりがせり上がって来て伊作の呼吸を乱す。
「怖がらなくてもいい。きみに危害は加えない」
先程の第一声よりも幾分か穏やかさを含んだ声に、少しだけ伊作の視界が開ける。男の言葉の端に意識を保たんとする不自然さが見えたのだ。ようやく動くようになった視線を男の腕に移す。そこには数匹のハエが纏わりつき、血混じりの膿汁が幾筋も流れていた。
「その傷……お辛いでしょう。僕でよければ処置してさしあげましょう」
視線を痛々しい傷からそらさぬまま、伊作は自ら立ち上がり男の許へ寄った。先程まで男の存在感に気圧されて声が出なかったことなど嘘のようだった。木陰へ男を座らせて具足をはずす。むせかえる周囲の青草の臭いに混じって、人肉の朽ちかけた臭いが立ち上る。上半身の衣を脱がした時、伊作の手が一瞬止まった。
「この傷は、戦傷、ですか」
「さあ。古いものもあるからね。いつの傷かなんていちいち覚えていないよ」
広範囲にわたる痛々しい傷と裏腹に男は飄々とした口調で話す。男の頭部から左半身にかけての傷は決して新しいものばかりではなく、今なお完治しない熱傷が広がっていた。包帯の上から受けた傷もあり、白い布は血と体液と汚れで本来の色を失っていた。
(こんなひどい傷を受けて……生きている人間を初めてみたな)
男の人間離れした生命力と精神力に息を呑みつつ伊作は包帯をゆっくりと捲き取っていく。皮膚に張り付いた部分を剥がす時は呼吸を止めてさらに慎重に。それでも所々血が滲む場所があるのだが、男は微動だにせず、声ひとつあげなかった。
あまりにも男が大人しいので気でも失っているのではないかと思ったが、ずっと横顔に刺さるような視線を感じていたのでそれはなさそうだった。伊作は痛いほどの視線を感じていたが、その視線がどういう類のものなのかは見当がつかなかったので、ただ目の前の手当に集中するだけだった。
頭部の包帯を巻き取っていく段階に差しかかった時、男と目が合う。右目はまっすぐに伊作を見据え、傷だらけの顔からは表情は伺えない。しかし、その右目からは―――実際に目が合っていたのは一瞬かもしれないが―――深くて暗い沼底のような孤独があった。
「―――っ」
伊作は何か言おうとしたが、自分自身、言葉にするものが見つからず、目線をそらした。
(なんだろう、この、罪悪感)
水筒の水を傷口にかけて洗い、道中に採取した薬草と手持ちの軟膏をすり合わせて変形した皮膚に塗り込んでいく。顔の左半分は皮膚が薄いので特に丁寧に。左目の周辺に溜まった目やには、取り除ける清潔な布がなかった為、舌で拭って吐き捨てる。その時だけ、男の体が小さく揺れた。
処置の間、二人の間に言葉はなかった。しかし、伊作には男の傷がとても饒舌に感じた。一つ一つが生への執着と死への渇望を訴えているようだった。その声なき声のせいなのか、一段とけたたましく聞こえる蝉の声と遠くの銃声のせいなのかわからないが伊作は軽い眩暈を覚えた。一瞬、視界が回り、ぐらりと身体の重心が狂う。やばい、と思った瞬間、
「大丈夫か」
新しい包帯を巻いた、たくましい片腕が伊作を支えた。
「……は、だ、大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけで……」
「おそらく熱にやられたのだろう。……すまない、無理をさせてしまったね」
そう言って男は座ったまま軽々と伊作を抱き上げ、方向を変えて地面に横たえさせ、水筒を伊作に渡した。とっさの出来事に伊作は驚いたが、男が自分を労わってくれたのだとわかると、微かに残っていた彼への恐怖感も消えた。
「あの、ありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ」
怪我の処置はとっくに終わっているのに男は伊作の横に座ったまま立ち去ろうとしない。伊作が話さなければ男の方からは何も話しかけてこない気がしたので口を開いた。
「あの、あなたは忍者……ですよね」
「……だったら何?」
「余計なお世話かもしれませんが、早くご自身のお仕事に戻られた方がいいのでは?」
伊作の問いに男は沈黙した。その表情は伊作からは見えなかった。
「君は、なぜここに?」
伊作の問いには答えず、逆に男から質問される形になる。しかし目の前の男に気を許してしまった伊作は何の疑いもなく自分の状況を話した。男は黙って聞いていたが伊作の話を聞き終わるとおもむろに溜息をついた。
「忍術学園の生徒か……そんな子どもに自分の仕事を心配される程、私は鈍っていないよ」
「そうですよね。ただ、忍者の行動は無駄なく迅速に行わなければならない…と習ったもので、つい」
伊作が言い終わらないうちに男から押さえつけられた。男の下に組み敷かれる形になり、手足の自由が奪われる。
「では聞こう。君はなぜこんな所で目的外の行動をとっていた?先生の教えはそうではないのだろう?」
ギリギリと抑えつけられて、伊作が全力でもがいても微塵も動けないというのに、男はまるで蜘蛛のように静止している。
「それはっ……怪我人がいたからっ」
「目的よりも救助優先か?それでは忍者はつとまらんだろう。例えばこんなふうに」
ヒヤリとした冷たいものが頸動脈に当てられる。それが刃先だとわかると伊作の足先から震えが走った。
「命を狙われる事だってある。救助した者も敵だということを忘れてはならないよ」
首に当てられた刃先よりも冷たい視線で言い放たれ、伊作は固く目を閉じた。以前から周囲に言われていた『お前の優しさは忍者にとって命取りになる』という言葉が頭を掠めた。
そして、その瞬間に伊作はある事に気がついた。
「よかった……」
「その包帯、少しもらえないか」
善法寺伊作は目の前に横たわっている負傷兵をさする手を止めた。ゆっくりと振り返り、声がした方向を凝視したまま息をのんだ。
その男は、自分の15年分の不運を何倍も濃く煮詰めたような、深い闇を背負っていた。
(―――全く、気配がしなかった)
逆光で顔がよく見えないが、タソガレドキ軍の具足を纏った男がじっとこちらを見据えている。伊作に忍術を学ぶ者としての本能的な緊張感が走った。顔の横で聞こえた筈の声…しかしその声の主はそれよりも遥か後方に立っていた。
また、自分の欠点が出てしまった。
敵地にも関わらず、目の前の怪我人に気を取られ周囲が見えなくなっていた。
伊作は額を伝う汗が違う種類の物に変わるのを感じた。逃げようかとも思ったが、気配を完全に消す力を持つ程の男に完全に背後に立たれている以上、伊作はここから逃げることは不可能だと察知する。
伊作はゆっくりとつばを飲み込んだ。
一歩ずつ男がこちらに近づいてくる。炎天下などものともしない圧倒的な闇の塊が迫ってくるようだった。不運だ不運だと友人達と言っている自分の陰気など、この闇の前ではちっぽけで赤子のようなものだ。
しかし、伊作は目の前の男に絶対的な恐怖を感じているにもかかわらず、その闇への不可思議な高揚を感じる。わかりやすく言うならば同族意識に近いものだった。余裕なんてないはずなのに、伊作はこの状況下でこんな事を考えている自分が可笑しかった。喉の奥から恐怖と興奮のうねりがせり上がって来て伊作の呼吸を乱す。
「怖がらなくてもいい。きみに危害は加えない」
先程の第一声よりも幾分か穏やかさを含んだ声に、少しだけ伊作の視界が開ける。男の言葉の端に意識を保たんとする不自然さが見えたのだ。ようやく動くようになった視線を男の腕に移す。そこには数匹のハエが纏わりつき、血混じりの膿汁が幾筋も流れていた。
「その傷……お辛いでしょう。僕でよければ処置してさしあげましょう」
視線を痛々しい傷からそらさぬまま、伊作は自ら立ち上がり男の許へ寄った。先程まで男の存在感に気圧されて声が出なかったことなど嘘のようだった。木陰へ男を座らせて具足をはずす。むせかえる周囲の青草の臭いに混じって、人肉の朽ちかけた臭いが立ち上る。上半身の衣を脱がした時、伊作の手が一瞬止まった。
「この傷は、戦傷、ですか」
「さあ。古いものもあるからね。いつの傷かなんていちいち覚えていないよ」
広範囲にわたる痛々しい傷と裏腹に男は飄々とした口調で話す。男の頭部から左半身にかけての傷は決して新しいものばかりではなく、今なお完治しない熱傷が広がっていた。包帯の上から受けた傷もあり、白い布は血と体液と汚れで本来の色を失っていた。
(こんなひどい傷を受けて……生きている人間を初めてみたな)
男の人間離れした生命力と精神力に息を呑みつつ伊作は包帯をゆっくりと捲き取っていく。皮膚に張り付いた部分を剥がす時は呼吸を止めてさらに慎重に。それでも所々血が滲む場所があるのだが、男は微動だにせず、声ひとつあげなかった。
あまりにも男が大人しいので気でも失っているのではないかと思ったが、ずっと横顔に刺さるような視線を感じていたのでそれはなさそうだった。伊作は痛いほどの視線を感じていたが、その視線がどういう類のものなのかは見当がつかなかったので、ただ目の前の手当に集中するだけだった。
頭部の包帯を巻き取っていく段階に差しかかった時、男と目が合う。右目はまっすぐに伊作を見据え、傷だらけの顔からは表情は伺えない。しかし、その右目からは―――実際に目が合っていたのは一瞬かもしれないが―――深くて暗い沼底のような孤独があった。
「―――っ」
伊作は何か言おうとしたが、自分自身、言葉にするものが見つからず、目線をそらした。
(なんだろう、この、罪悪感)
水筒の水を傷口にかけて洗い、道中に採取した薬草と手持ちの軟膏をすり合わせて変形した皮膚に塗り込んでいく。顔の左半分は皮膚が薄いので特に丁寧に。左目の周辺に溜まった目やには、取り除ける清潔な布がなかった為、舌で拭って吐き捨てる。その時だけ、男の体が小さく揺れた。
処置の間、二人の間に言葉はなかった。しかし、伊作には男の傷がとても饒舌に感じた。一つ一つが生への執着と死への渇望を訴えているようだった。その声なき声のせいなのか、一段とけたたましく聞こえる蝉の声と遠くの銃声のせいなのかわからないが伊作は軽い眩暈を覚えた。一瞬、視界が回り、ぐらりと身体の重心が狂う。やばい、と思った瞬間、
「大丈夫か」
新しい包帯を巻いた、たくましい片腕が伊作を支えた。
「……は、だ、大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけで……」
「おそらく熱にやられたのだろう。……すまない、無理をさせてしまったね」
そう言って男は座ったまま軽々と伊作を抱き上げ、方向を変えて地面に横たえさせ、水筒を伊作に渡した。とっさの出来事に伊作は驚いたが、男が自分を労わってくれたのだとわかると、微かに残っていた彼への恐怖感も消えた。
「あの、ありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ」
怪我の処置はとっくに終わっているのに男は伊作の横に座ったまま立ち去ろうとしない。伊作が話さなければ男の方からは何も話しかけてこない気がしたので口を開いた。
「あの、あなたは忍者……ですよね」
「……だったら何?」
「余計なお世話かもしれませんが、早くご自身のお仕事に戻られた方がいいのでは?」
伊作の問いに男は沈黙した。その表情は伊作からは見えなかった。
「君は、なぜここに?」
伊作の問いには答えず、逆に男から質問される形になる。しかし目の前の男に気を許してしまった伊作は何の疑いもなく自分の状況を話した。男は黙って聞いていたが伊作の話を聞き終わるとおもむろに溜息をついた。
「忍術学園の生徒か……そんな子どもに自分の仕事を心配される程、私は鈍っていないよ」
「そうですよね。ただ、忍者の行動は無駄なく迅速に行わなければならない…と習ったもので、つい」
伊作が言い終わらないうちに男から押さえつけられた。男の下に組み敷かれる形になり、手足の自由が奪われる。
「では聞こう。君はなぜこんな所で目的外の行動をとっていた?先生の教えはそうではないのだろう?」
ギリギリと抑えつけられて、伊作が全力でもがいても微塵も動けないというのに、男はまるで蜘蛛のように静止している。
「それはっ……怪我人がいたからっ」
「目的よりも救助優先か?それでは忍者はつとまらんだろう。例えばこんなふうに」
ヒヤリとした冷たいものが頸動脈に当てられる。それが刃先だとわかると伊作の足先から震えが走った。
「命を狙われる事だってある。救助した者も敵だということを忘れてはならないよ」
首に当てられた刃先よりも冷たい視線で言い放たれ、伊作は固く目を閉じた。以前から周囲に言われていた『お前の優しさは忍者にとって命取りになる』という言葉が頭を掠めた。
そして、その瞬間に伊作はある事に気がついた。
「よかった……」