limited instinct
それはとてもとても大きな部屋だった。壁には何枚ものの肖像画がかけられ、いくつものソファが置かれ、驚くほど大きな陶器の青い花瓶が置かれていた。床に敷かれた絨毯の毛足は長く、天井を見上げれば、ところどころは染みがついていたけれど、夜になると小さな硝子製のシャンデリアが灯ってストライプ柄の壁紙を照らした。それだけたくさんのものがあったのに、いつもその部屋は寂寥感を与えた。ソファに座るひとびとが定位置からはずれようとしなかったせいかもしれない。彼ら、彼女らは部屋に入ると、まっすぐに自分の場所へ歩いて行った。革張りのソファ、布のカバーがかかったソファ、レースが背中にかけられたソファ、刺繍入りのクッションが置かれたソファ、ひとり用のもの、ふたり掛けのもの、寝椅子に近いもの、背もたれのないもの。腰をおろして、弟の話を聞いて、すぐに身を起こして部屋から出て行った。ウクライナは弟の後ろ、妹の隣でその光景を眺めていた。めまぐるしかった光景はやがて、すこしずつ部屋の持つ寂しさに近づいていった。やがて視界の中には誰もいなくなった。ウクライナはベラルーシの手を引いた。
感情もなにもかもを排除した上で説明をしようとすれば、おおよそそんな筋書きになる。妹は葛藤した。自分も葛藤した。それは国とは関係ない部分で、すべて感情の領分だった。苦しさを感じる機能はとっくに麻痺して、殆ど弟と同化したのではないかと思われる節すらあった。妹には尚更だっただろう。それでもふたりとも、国であることを止めはしなかった。
「後悔しているの」
とベラルーシが言った。
「私が頭を横に振るだけでよかった。そうすれば私は消えて、すぐにでも兄さんのものになっただろうから」
「そうね。そうすれば、ベラルーシはいなくなったあとのことに関わらなくて済むんだものね」
「……姉さんだって、そうしたかったはずだと思うんだけど」
「さあ、どうだったでしょう?もう忘れちゃったの」
「忘れた、なんて」
まだあのことは続いているのに?小さな笑い声とともに指がはずされる。兄さんは姉さんに会いたい。姉さんは兄さんに会えない。兄さんは私を受け入れようとしない。私は兄さんの傍にいたい。唄うように、笑いながらベラルーシが指を折って数え上げる。ぜんぶぜんぶ、姉さんとわたしがしたことなのよ。あの日、あのとき、わたしたちがしたことよ。笑って、笑って、最後には咳き込んで、自分の胸をかきむしって、髪を振り乱して、最後には握り締めた両手を振り上げる先も持たずにベラルーシは話し続けた。
「いつまで続くんだろう、こんなばかばかしいこと」
膿を吐き捨てるように。壁に向かって叫ぶように。自分自身を投げ出すように。
「こんなこと、まるっきり意味がないのに――!!!」
波が押し寄せてはまた去っていき、ときどき波頭が砕けて自身が持っていたエネルギーを失っていく。
ベラルーシの押し殺した泣き声が聞こえるまで待って、ウクライナは瞼を持ち上げてからしばしの間部屋の眩しさにまばたきを繰り返した。
今日、この部屋に来てよかった。心からそう思った。
「ベラルーシ」
ねえ、ベラルーシ。
すっかり乱れた髪を手櫛ですこしずつ整えていく。そうしながら、何度も何度も彼女の名前を呼んだ。ベラルーシ、ベラルーシ、ベラルーシ。彼女の愛する兄の名前を包含した、彼女と兄を隔てる名前を。重みがないというのなら、何度も重ねて呼べばよい。
もしかしたら彼女にはまだ機会が残されているのかもしれない。そのうち彼女はまた愛する兄とひとつになれるのかもしれない。けれど今は忘れるのにも、事態が変化するのにも時間があまりにも足りなさ過ぎる。すぐ傍にあったはずのものを掴みそこねた記憶がまだ鮮やか過ぎる。
ベラルーシは気付いているのだろうか。その記憶こそが、妹の固執する感情こそが彼女を兄から別っていることに。感情を捨てれば、選択権を捨てれば、服従する意志さえ捨てれば、彼女はすぐにでも弟のものになれるだろうに。
捨てることからベラルーシを遠ざけているものがあの日の彼女にウクライナの手を掴ませ、おとなしく引かれたままにさせたのだとウクライナは思っている。
「わたしは、よかったって思っているの」
けれどそれを告げる必要はない。
「ベラルーシがいてくれてよかった、って」
弟の隣にいられないからと自分の隣で泣くしかない妹でいてくれてよかった、と。
作品名:limited instinct 作家名:しもてぃ