スロウレイン
やけに静かに、雨が降っていた。
夏の雨というのは、例えば夕立のように、ひたすら激しく降る印象が強い。こんなふうに、ただ静かに降ると、どうにも調子が狂う。と思いながら首を巡らせると、もっと驚くようなものが目に飛び込んできた。
なんとあの喧嘩人形が、臨也のすぐ横の床に座り込んで、項垂れていたのだ。
臨也の知る平和島静雄という人間は、臨也の傍に好んで近づくこともなければ、たとえ拷問を受けても臨也に弱った顔など見せない。そういう人間である。
だが今の静雄は、手を振り上げれば届く距離に臨也がいるというのに、完全に戦意を喪失して意気消沈している気配を隠そうともしていない。
あまりのことに、臨也はこの男を見るたびにほぼ反射で出てくる嫌味さえ浮かんではこなかった。
「…ね、ねえちょっと、シズちゃん?」
話しかけると、静雄は酷く鈍い動きで顔を動かし臨也を見たが、いつものようにこめかみに血の筋を浮かべることもなく、すぐにまた項垂れてしまった。とんだ緊急事態である。
「何落ち込んでるの。気持ち悪いんだけど」
「…るせぇな」
反発の声にも気力がない。その上、いつもなら臨也の顔を見るとほぼ条件反射で浮かんでくる血の筋さえ浮かんでいない。ただ項垂れて、力なく臨也を睨むだけである。これは相当重症だ。臨也は柄にもなく慌てたが、それを悟られるのも癪で、わざと嘲るような口調のまま言葉を紡ぐ。
「単細胞のシズちゃんがそんなに気落ちするなんてさあ、よっぽどの異常事態だよね。明日世界が滅びるのかな?」
わざとらしいそんな挑発にも、静雄は乗ってくることなく、それどころかより深く項垂れてしまった。臨也に殴りかかってくることも、臨也に暴言を吐くこともない平和島静雄なんて未だかつてなかった。
臨也は落ち込みの局地にいる静雄の、金の髪に埋もれがちな顔を覗き込む。池袋の喧嘩人形の二つ名を持つ男の、サングラスを外した目には、薄っすらと、だが確かに涙の膜が張られていた。これ以上驚くことなんてないと思っていたのに、その涙の膜のせいでもう嫌味さえ出てこなかった。
「……シズちゃん、酔ってるの?」
出てきたのはそんな、面白みもない問いかけだった。静雄は、ふるりと首を横に振る。
「…酔ってねえ。けど、酒飲みてぇな」
後半は消え入りそうな呟きだった。この男はバーテンなんぞをしていたが、もともとアルコールに強いほうではないはずだ。アルコールを所望するのは珍しい。
「アルコールなんてカルーアミルクくらいしか飲めないくせにさ」
「…なんで知ってんだよ」
「知ってるよ。素敵で無敵な情報屋の情報網舐めないでよね」
そう嘯くが、結局そんな情報は、昔から静雄を見ていたから簡単に推察できただけに他ならない。
――だってシズちゃん、高校のときからコーヒー牛乳ばっかり飲んでたじゃない。
だから似た味わいのコーヒーリキュールを用いたカクテルが好きに違いないという、単純な憶測だ。
静雄は妙な膂力があり、喧嘩ばかりの生活を送っているが、けして育ちは悪くない。愛されて育ち、しっかりとしつけられてきた片鱗が普段から垣間見られる。例えば、食べ物は絶対に無駄にしないし、食べ方も綺麗だ。そんな静雄に、臨也は飲み物を投げつけられたことがある。それが、コーヒー牛乳だった。
高校に入ってそう年月も経っていないような頃だ。校舎に置かれた自販機には、パックのコーヒー牛乳が売られていて、ほとんど牛乳にほんの軽くコーヒーを入れた程度のそれは、甘くて美味しいと主に女子生徒から人気だった。見かけによらず甘いものが好きらしい静雄がそれを啜っているのを、臨也は幾度となく見ている。
その日も、静雄はそのパックを飲んでいた。ただそれは、静雄が自分で買ったものではない。それは、落ち込んでいた静雄に門田が奢ったものだった。
その日も、今日のように静かに、雨が降っていた。その日静雄は、入学時からの恒例通り臨也が差し向けた生徒たちと派手な喧嘩を繰り広げ、そしてその結果、一般生徒を巻き込んでしまった。小柄で気の弱そうな男子生徒だった。
静雄の喧嘩に巻き込まれたわりにその生徒は軽傷ですんだが、無関係の人間を傷つけてしまった静雄は放課後になっても肩を落としたまだった。勿論、臨也を見ると威嚇するように睨み付けては来たが、それも随分と覇気がない。見かねた面倒見のいい門田が、静雄の好きなコーヒー牛乳を静雄に奢ったのだ。
静雄は門田の気遣いに嬉しそうな顔をした。当時から静雄は表情豊かな少年ではなかったが、それでも気を許す一部の人間を相手にするときは、口元や目元が緩む。たかが80円程度の紙パックの飲み物で、嬉しげな表情を浮かべた静雄が気に食わず、臨也は牙を剥かれることを覚悟で教室の反対側から静雄の近くまでずかずかと歩いた。
「…んだよ、もう今日は近づくな。ぶっ殺す」
案の定、静雄は臨也の姿を見ると、条件反射で眉間に皴を寄せて臨也を睨みつけてくる。臨也と静雄の距離が狭まったことで、教室に残っていた数人の生徒の間に緊張した空気が走る。それを感じながら、しかしその空気を綺麗に無視して、臨也は静雄の近くの席に手をついた。
「今日シズちゃんが怪我させた生徒はさあ、気の弱そうな子だったし、痛いし怖いしでこれからしばらく学校に来ないかもね」
わざとらしく同情するような表情を浮かべて言ってやると、静雄は目に見えて表情をこわばらせた。それが愉快で、臨也は更に言い募る。
「喧嘩の相手に留まらず、無関係な人間も無差別で傷つけて怖がられて、シズちゃんてホント、傍迷惑な化け物だよねえ」
そこまで言い切ると、静雄の傍らにいた門田が、顔を険しくして「おい」と呼びかけてきた。おそらく門田は、言い過ぎだ、と臨也を咎めようとしたのだろう。だがそんな言葉が発されるよりも早く、ひゅ、と鋭い音がして、高速で何かが飛んできた。
臨也は持ち前の反射神経で、静雄が動いた瞬間に身を引いていて事なきを得たが、見れば、臨也が手を掛けていた机に、紙パックの残骸らしきものが、原型も留めないほど不恰好な姿となってつぶれていた。
まだかなり残っていたらしい薄茶色の液体があたりに散らばって、すぐに甘い香りが漂ってくる。臨也の頬にも、その液体が跳ねて掛かった。
「…あ、わり…」
甘い匂いで我にかえったらしい静雄が、コーヒー牛乳を買ってくれた門田に小さな声で謝り、俯いて教室から出て行ってしまった。
「おい、静雄!」
面倒見のいい門田が、静雄のあとを追っていく。臨也はそれを忌々しく見送った。
後に残ったのは、事の成り行きを遠くから見守っていた数人の生徒と、呆れきった顔をした新羅、そして臨也だった。
「あーあ。あれはさすがに静雄も泣いたんじゃない?」
「…泣いてないよ」
声を掛けてきた新羅に、臨也は頬にかかったコーヒー牛乳を手で拭いながら答えた。実際、静雄は俯いた瞬間にも泣いてはいなかった。
「ふうん?」
新羅は大して興味もなさそうに横目で臨也を見てから去っていった。
臨也は、頬を拭った手の甲を軽く舐めてみる。甲についた液体は、生ぬるくなったせいか、ざらりとした苦味だけを舌に残した。
「…マズ…」
思わず、臨也は呟いた。
夏の雨というのは、例えば夕立のように、ひたすら激しく降る印象が強い。こんなふうに、ただ静かに降ると、どうにも調子が狂う。と思いながら首を巡らせると、もっと驚くようなものが目に飛び込んできた。
なんとあの喧嘩人形が、臨也のすぐ横の床に座り込んで、項垂れていたのだ。
臨也の知る平和島静雄という人間は、臨也の傍に好んで近づくこともなければ、たとえ拷問を受けても臨也に弱った顔など見せない。そういう人間である。
だが今の静雄は、手を振り上げれば届く距離に臨也がいるというのに、完全に戦意を喪失して意気消沈している気配を隠そうともしていない。
あまりのことに、臨也はこの男を見るたびにほぼ反射で出てくる嫌味さえ浮かんではこなかった。
「…ね、ねえちょっと、シズちゃん?」
話しかけると、静雄は酷く鈍い動きで顔を動かし臨也を見たが、いつものようにこめかみに血の筋を浮かべることもなく、すぐにまた項垂れてしまった。とんだ緊急事態である。
「何落ち込んでるの。気持ち悪いんだけど」
「…るせぇな」
反発の声にも気力がない。その上、いつもなら臨也の顔を見るとほぼ条件反射で浮かんでくる血の筋さえ浮かんでいない。ただ項垂れて、力なく臨也を睨むだけである。これは相当重症だ。臨也は柄にもなく慌てたが、それを悟られるのも癪で、わざと嘲るような口調のまま言葉を紡ぐ。
「単細胞のシズちゃんがそんなに気落ちするなんてさあ、よっぽどの異常事態だよね。明日世界が滅びるのかな?」
わざとらしいそんな挑発にも、静雄は乗ってくることなく、それどころかより深く項垂れてしまった。臨也に殴りかかってくることも、臨也に暴言を吐くこともない平和島静雄なんて未だかつてなかった。
臨也は落ち込みの局地にいる静雄の、金の髪に埋もれがちな顔を覗き込む。池袋の喧嘩人形の二つ名を持つ男の、サングラスを外した目には、薄っすらと、だが確かに涙の膜が張られていた。これ以上驚くことなんてないと思っていたのに、その涙の膜のせいでもう嫌味さえ出てこなかった。
「……シズちゃん、酔ってるの?」
出てきたのはそんな、面白みもない問いかけだった。静雄は、ふるりと首を横に振る。
「…酔ってねえ。けど、酒飲みてぇな」
後半は消え入りそうな呟きだった。この男はバーテンなんぞをしていたが、もともとアルコールに強いほうではないはずだ。アルコールを所望するのは珍しい。
「アルコールなんてカルーアミルクくらいしか飲めないくせにさ」
「…なんで知ってんだよ」
「知ってるよ。素敵で無敵な情報屋の情報網舐めないでよね」
そう嘯くが、結局そんな情報は、昔から静雄を見ていたから簡単に推察できただけに他ならない。
――だってシズちゃん、高校のときからコーヒー牛乳ばっかり飲んでたじゃない。
だから似た味わいのコーヒーリキュールを用いたカクテルが好きに違いないという、単純な憶測だ。
静雄は妙な膂力があり、喧嘩ばかりの生活を送っているが、けして育ちは悪くない。愛されて育ち、しっかりとしつけられてきた片鱗が普段から垣間見られる。例えば、食べ物は絶対に無駄にしないし、食べ方も綺麗だ。そんな静雄に、臨也は飲み物を投げつけられたことがある。それが、コーヒー牛乳だった。
高校に入ってそう年月も経っていないような頃だ。校舎に置かれた自販機には、パックのコーヒー牛乳が売られていて、ほとんど牛乳にほんの軽くコーヒーを入れた程度のそれは、甘くて美味しいと主に女子生徒から人気だった。見かけによらず甘いものが好きらしい静雄がそれを啜っているのを、臨也は幾度となく見ている。
その日も、静雄はそのパックを飲んでいた。ただそれは、静雄が自分で買ったものではない。それは、落ち込んでいた静雄に門田が奢ったものだった。
その日も、今日のように静かに、雨が降っていた。その日静雄は、入学時からの恒例通り臨也が差し向けた生徒たちと派手な喧嘩を繰り広げ、そしてその結果、一般生徒を巻き込んでしまった。小柄で気の弱そうな男子生徒だった。
静雄の喧嘩に巻き込まれたわりにその生徒は軽傷ですんだが、無関係の人間を傷つけてしまった静雄は放課後になっても肩を落としたまだった。勿論、臨也を見ると威嚇するように睨み付けては来たが、それも随分と覇気がない。見かねた面倒見のいい門田が、静雄の好きなコーヒー牛乳を静雄に奢ったのだ。
静雄は門田の気遣いに嬉しそうな顔をした。当時から静雄は表情豊かな少年ではなかったが、それでも気を許す一部の人間を相手にするときは、口元や目元が緩む。たかが80円程度の紙パックの飲み物で、嬉しげな表情を浮かべた静雄が気に食わず、臨也は牙を剥かれることを覚悟で教室の反対側から静雄の近くまでずかずかと歩いた。
「…んだよ、もう今日は近づくな。ぶっ殺す」
案の定、静雄は臨也の姿を見ると、条件反射で眉間に皴を寄せて臨也を睨みつけてくる。臨也と静雄の距離が狭まったことで、教室に残っていた数人の生徒の間に緊張した空気が走る。それを感じながら、しかしその空気を綺麗に無視して、臨也は静雄の近くの席に手をついた。
「今日シズちゃんが怪我させた生徒はさあ、気の弱そうな子だったし、痛いし怖いしでこれからしばらく学校に来ないかもね」
わざとらしく同情するような表情を浮かべて言ってやると、静雄は目に見えて表情をこわばらせた。それが愉快で、臨也は更に言い募る。
「喧嘩の相手に留まらず、無関係な人間も無差別で傷つけて怖がられて、シズちゃんてホント、傍迷惑な化け物だよねえ」
そこまで言い切ると、静雄の傍らにいた門田が、顔を険しくして「おい」と呼びかけてきた。おそらく門田は、言い過ぎだ、と臨也を咎めようとしたのだろう。だがそんな言葉が発されるよりも早く、ひゅ、と鋭い音がして、高速で何かが飛んできた。
臨也は持ち前の反射神経で、静雄が動いた瞬間に身を引いていて事なきを得たが、見れば、臨也が手を掛けていた机に、紙パックの残骸らしきものが、原型も留めないほど不恰好な姿となってつぶれていた。
まだかなり残っていたらしい薄茶色の液体があたりに散らばって、すぐに甘い香りが漂ってくる。臨也の頬にも、その液体が跳ねて掛かった。
「…あ、わり…」
甘い匂いで我にかえったらしい静雄が、コーヒー牛乳を買ってくれた門田に小さな声で謝り、俯いて教室から出て行ってしまった。
「おい、静雄!」
面倒見のいい門田が、静雄のあとを追っていく。臨也はそれを忌々しく見送った。
後に残ったのは、事の成り行きを遠くから見守っていた数人の生徒と、呆れきった顔をした新羅、そして臨也だった。
「あーあ。あれはさすがに静雄も泣いたんじゃない?」
「…泣いてないよ」
声を掛けてきた新羅に、臨也は頬にかかったコーヒー牛乳を手で拭いながら答えた。実際、静雄は俯いた瞬間にも泣いてはいなかった。
「ふうん?」
新羅は大して興味もなさそうに横目で臨也を見てから去っていった。
臨也は、頬を拭った手の甲を軽く舐めてみる。甲についた液体は、生ぬるくなったせいか、ざらりとした苦味だけを舌に残した。
「…マズ…」
思わず、臨也は呟いた。