スロウレイン
あの時、静雄は本当に泣かなかったのだろうか。
臨也は人の気配のなくなった教室で、俯いた静雄の顔を再生する。彼は、柔らかな肌を鋭く切り裂かれたかのような、痛みを堪えた顔をしていた。静雄のそんな顔は、臨也にとっては望ましいもののはずなのに、舐めたコーヒー牛乳の苦味がなかなか消えなかった。
臨也は苛々とした気持ちのままで、教室の窓から雨の校庭を見下ろした。そしてその瞬間に動きを止める。――そこに、長身に金の髪の少年が立ちつくしていたからだ。
静雄は臨也の視線などに当然気付くこともなく、ただこちらに背を向けて、鈍色の空をぼんやりと見上げているようだった。静かに降る雨が、普段は柔らかに揺れる髪を濡らしている。
門田は結局あの後静雄には追いつけなかったのだろうか。それは分からないが、とにかく静雄の背中は、意気消沈しているのを隠せていない。
あの傷ついた瞳で、重い空を見ているのか。臨也は何故か、苦々しい気持ちで静雄の背から目を逸らした。
あの時静雄は、泣かなかったのだろうか。あれから何年も経った今になっても、時々臨也は考えることがある。
今のように、静雄は涙の膜を張らせていたわけではない。ただ、やはり彼は泣いていたように臨也には思えるのだ。
回想に浸っていた臨也の隣りで静雄は、我慢して我慢してそれでも堪えられなかった、という風情で、ぽろりと涙の粒をこぼした。臨也は回想から引き戻され、ぎょっとする。
「ちょ、ちょっと、ほんとにどうしちゃったの」
馬鹿みたいに何年もこの男ばかり目で追ってきたのだから断言できる。静雄は誓って簡単に人前で泣くような男ではない。よほどのことがあったのだろう。声を掛けても静雄は答えることはなく、ただ目が痛む、というように手のひらで目頭を押さえた。伏せられた目尻から、またぽろっと涙がこぼれ落ちる。
「…ねえ、シズちゃん…」
泣かないでよ。思わずそんなことを言ってやりたくなる。この嫌悪の対象の男が、どんなに辛く悲しいことを経験しようが関係ないはずだ。むしろそれは歓迎すべき事態ですらある。それでも、目の前でこうも素直に泣かれると、どうにも冷静でいられなくなる。
静雄は、涙の膜がこみ上げる瞳で、臨也を見た。
「どうしたの、シズちゃん」
「…て、めぇは…」
自分でも驚くような優しい声で再度問いかけると、静雄はようやく口を開いた。小さく、悲しみを隠すことの出来ない頑是無いこどもみたいな声が零れる。
「うん」
「てめえは、簡単に化け物とか言うけどなあ…!」
「うん」
「…俺だって結構、後悔したりもすんだよ…っ」
子供が泣きすぎてしゃくり上げながら訴えるような、そんな切なる声だった。
知ってるよ。シズちゃんが暴力ふるってその度に後悔してるのなんて、とっくに知ってる。それでも、傷つけあう関係を望んできた。
少し痛みを訴える胸の中に、臨也は瞼を伏せる。そうしてもう一度目をあけると、やはり静雄はまだ泣いていた。ぽろっと綺麗な粒が落ちる。
「…シズちゃん、泣かないでよ」
さっきは飲み込んだ言葉が、今度こそ零れた。静雄はそれでも泣き止まない。高校の頃、静かに雨に打たれていた静雄の後姿がよみがえる。濡れた体が冷たそうだった。今の静雄はどうだろう。
臨也は、力なく投げ出された静雄の指先に触れた。やはり冷たい指先だった。
「泣かないで」
もう一度だけ、小さく呟く。静雄は何も言わず、ただ嗚咽のような吐息を漏らした。言葉が途切れた空間に、静かな雨の音だけが聞こえ続けている。臨也は静雄の指先に、自分の指先をほんの軽く触れ合わせたまま、その雨音を聞いていた。