スロウレイン
雨音が、やまない。
そう思いながら瞼を開けた。白い、けれども瀟洒な雰囲気の天井が目に入る。見覚えがあるような、ないような。ぼんやりとそんなことを考えていると、その白い天井を遮ってひょいっと見知った顔が臨也を覗き込んだ。旧知の闇医者である。
「ああ、ようやく起きたね」
「…は?」
「おはよう臨也。約31時間ぶりの現実世界へようこそ」
臨也はどうにも回転の遅い思考で、新羅の言葉を噛み砕く。取りあえず理解できたことは、ここが闇医者の住居であるということと、自分が31時間あまり眠っていたということだ。
多少混乱している臨也に関係なく、新羅は臨也の左腕を取って脈を計っている。
「うん、問題なさそうだね。気分はどうだい?」
「…なんだか気味の悪い夢を見ていたせいで、最悪だよ」
「ふうん? 君がいう最悪な夢の内容には多少興味を覚えるな。今度聞かせてよ」
冗談じゃない。静雄が泣いて、慰めるように静雄の手を握る夢なんて、とそこまで思って、ふと静雄のことが気に掛かった。そしてゆっくりと起き上がって首を巡らせた瞬間に、身体が硬直する。
臨也が今まで横になっていたベッドの脇に置かれた椅子に腰だけをかけた人影が、金髪が揺れる頭をベッドに埋もれさせていた。明らかに眠っている。
「…シズちゃん?」
呼びかけても返答はない。臨也はそこで、自分が眠る前、正しくは意識を失う前、新羅の言葉によれば約31時間前のことを思い出した。臨也の隣りで眠っている喧嘩人形といつものように喧嘩をして、頭部に衝撃を受けたのだ。
「さっきようやく眠ったところだから、起きないと思うけど」
「シズちゃんが俺を運んできたの?」
「そうだよ。僕はセルティと歩む幸せな人生の最中で、平たく言えば命が惜しいから詳しくは言わないけど、頭から血を流した君を抱えてここに来たときの静雄の慌てぶりといったらさあ」
新羅は意味ありげに笑ってから、そこで言葉を切った。その先を臨也に告げる気はさらさらないのだろう。
「…最悪だ」
「ま、君は意外にしぶといから大丈夫だとは思うけど、一応安静にね。治療費は後で請求するよ、口止め料と一緒にね」
「口止め料?」
「そう、それの」
新羅は視線で、臨也の右手を示した。その先には、世にも恐ろしい光景があった。
臨也の右手が、投げ出された静雄の右手を掴んでいたのだ。
「……最悪だ」
夢の内容が鮮明に思い出されて、臨也は頭を抱える。そんな臨也を新羅は楽しげに見てから、「飲み薬を処方するよ」と言い、何か作業を始めた。それをわき目に見て、臨也はごそごそと起き上がり、近くにあった自分のコートを取った。その動作に気付いた新羅が、声を掛けてくる。
「帰るのかい? 医者として忠言すると、もう少し休んでいたほうがいいと思うけど」
「…こいつが起きたら色々と面倒だろ」
「まあ確かにね。でも静雄も、君に大怪我を負わせたことを随分と後悔して凹んでたみたいだから、いつもよりは大人しいと思うよ」
だから嫌なのだ。臨也はコートを羽織り、さっさとドアへと向かう。
部屋から出る前に、一度自分が寝かされていたベッドを振り返る。見慣れた背中が、呼吸に合わせてほんの僅かに動いている。眠りは深いようだ。
「ねえ新羅、そこのやつが起きたら言ってよ。おいしいコーヒーリキュールがあるから、飲みたくなったらうちに来いって」
「……え!?」
驚嘆の声をあげる闇医者など気にせずに、新羅はその部屋を後にした。
コーヒーリキュールを買い始めた理由なんて覚えていない。あの高校の頃の日、静雄の飲んでいたコーヒー牛乳を駄目にしたことの呵責なのだなどと、絶対に思いたくもない。
それでも臨也は、自分ではろくに飲みもしないのに、日本ではあまり手に入らないようなコーヒーリキュールさえも買っていたし、買うたびに静雄のことを思い出したりもした。忌々しいことだが。
臨也は新羅のマンションから出て、一度伸びをする。どうやら今は早朝らしい。
強打したらしい頭は未だに鈍く痛むし、長時間眠っていたせいか身体も重い。だが気分は、新羅に言ったほどに悪くはなかった。
雨は、夏の早朝だというのに静かに降り続いている。けれど、見上げた都会の朝の空は、少しずつ眩しさを取り戻しつつあった。まもなく雨もやむだろう。
(スロウレイン)