【捏造】 真選組!
<1=「そ の 名 を」>
「総ちゃん」
隊内で総悟のことを総ちゃんなどと馴れ馴れしく呼ぶものなど居ない。近藤や土方は総悟と呼ぶ。あれは旧い仲間の気安さからそう呼ぶ。子供の頃から見知って慣れ親しんだ名前をそうおいそれとは呼びかえることは出来ぬ。他の者は隊長、沖田隊長、沖田さん、沖田君、この程度のものである。下の名前で呼ぶものは殆ど無い。
総ちゃんと呼ぶのは唯一の肉親である姉だけであり、その人は郷里に残してきた。ただ此処にはもう一人馴れ馴れしく、勝つ親しみを込めて安く呼ぶ人がある。
「山南さん」
山南は隊服のまま縁側で煙草を吸っていた。色白の顔に緩くうねる髪が掛かっている。長い黒髪が背中で微かな風にそよぐ。
「総ちゃん、もう上がり」
「ハイ」
ふぅん、そういうと自分の隣の床を掌で叩いた。座れと言うことだろう。総悟は風上に座ると、山南は煙を風下に向かってふぅと吐いた。
「総ちゃん、あんみつでも食べに行かない」
女が煙草を呑むなと土方さんは言う。けれど山南は意にも介さず、咥え煙草で屯所をうろつくあなたにだけは言われたくないですよと嗤った。その笑った顔が酷薄そうで、それを傍で見ていた総悟はずいぶん気分が良かったことを思い出す。それに気を悪くしたのか寝間では吸うなよと、まるで風紀委員のように小言を垂れる土方さんは大抵すぐに退散する。仲が悪いのだ。
「いいですけど」
山南さんは然程酒には強くは無い。呑みに誘われはしないがよく甘味処へ誘われる。餡蜜屋にコーヒーショップ、団子屋、ケーキ屋。甘いものに主義はないらしい。
酒に酔うとすぐに真っ赤になって処構わず眠ってしまう。あるときなど酒宴が開かれた時、雑魚寝をする平隊士と混じって寝ているものだから、その傍に居た入隊したての山崎とか言う男を蹴って隙間を空けさせて体をねじりこんだ。
男所帯の中にたった一人女の人が居るとうのは風紀が乱れるとか何とか言っていたけれど、そんな言葉を捻じ伏せたのは近藤さんと土方さんだ。隊内においては剣の強さが一番物を言う。実際、その腕は確かなものであったのは近藤さんも認めるところだった。だがそれを知らぬ者達を、本当の意味で捻じ伏せたのは彼女自身の力である。当時、反対した連中に真正面からこういった。
「じゃぁ試合を致しましょう、座敷でくだくだと埒も無い。剣で物を言うほうが早い」
そう言ったが早いか、すくと立って道場へ赴いた。よせと言ったのは局長である近藤で、放っておけといったのは土方だ。総悟は面白そうだと半ば野次馬根性丸出しで見物しに行った。初めはなんだかんだといっていた連中は女がどうの男がどうのと言っていたが、ぞろぞろと道場へ入った反対派は、木刀を持ちすらりと正眼に構えた彼女の気魄で口を噤んだ。
「剣士たるもの口先だけの口上は無用、参られよ」
あの顔は酷く穏やかで、菓子でも召し上がれというような軽やかなものだった。防具も付けず、太い木刀を手にした女にしては大柄なその人は、どなたからと涼しく言った。
では私が、と言ったのはつい最近入隊した歳若い少年だった。歳は総悟とさして変わらない。審判を買って出たのは中立の立場をとっていた、と言うよりもその件には一切口を挟まなかった無口な斉藤が買って出た。
はじめ、そう言った一秒の間の後、少年は気合の入った掛け声で間合いを取った。山南はそれに気圧されもせず、じっと相手を見た。爪先が相手の呼吸を読むように微かに動いている。勝負を決したのはほんの一瞬だった。少年が一撃を打ち込んだ瞬間ひらりと風に舞うように身を翻し、胴を打った。酷いうめき声とともに床に伸びた少年は何が起こったかも分かっていないようだった。踏み込みの足音がまるで舞踏のように見えた。長い髪が踊った。
あぁ、美しい舞のようだ。
「次の方は」
優しげな目が微かに笑うように、ざわついた群集を見る。
見物がてら野次を飛ばし、一足先に戻ってきた総悟に土方は尋ねた。どうだった、隊士がすべて出て行った座敷の中には近藤と土方、それから山南の腕を体で知っている数名が居てそれらの両目が総悟を見た。
「聞くまでも無いでさァ」
当たり前である。他流とはいえ北斗一刀流、免許皆伝。隊長クラスならまだしも、そんじょそこらの剣術を齧った連中が叶うわけは無い。反対派で彼女と対峙した者すべては床に伸びたままで、山南は汗一つかいていなかった。次の方参られよ、そう言うが進み出る者が居なくなり、総悟はどうしたィ、さっさとやりなァ、と同隊の末席を蹴って前に出した。そいつもやはり床に伸びた。そう聞かせてやると、あぁやっぱりなァなどと笑うとも納得とも取れる声がした。その時廊下の奥からばたばたと足音がして、隊長、隊長、沖田隊長と山崎の声がした。安売りするねィとひょいと総悟は顔を出す。
「皆で稽古をしましょうかと、山南さんが」
汗も掻かなかねぇだろうよと近藤は恐らく逃げ出したと思しき山崎を見て笑い、土方は負けるはずがねぇやとしれと言った。その後ろから少し遅れてすらりとした長身の山南が庭から顔を出した。
「総ちゃん、若い衆に稽古つけてやって貰えないかい」
高く結った髪を解き、首を振って縁側に腰掛けた。非常にタイミングよく年嵩の井上が、冷たい蕎麦茶を山南の前に置き、乾いた手拭を渡した。
「お見事でした」
父親ほども年の違う井上にそう言われた山南は、少し恥ずかしそうに笑った。お茶は自分で淹れますよと言いながらも硝子の茶器を受け取り、口をつける。頬だけが上気していた。色白の頬はばら色で、蒸し暑い道場に居た所為か首筋から一粒、汗が流れた。総悟はその一粒の透明なしずくが、鎖骨の上へ消えるのをじっと見た。
「総ちゃん」
山南にそう呼ばれて顔を上げた。井上から渡された手拭で額と首筋を拭い、少年らしさが残る目を見て微笑んだ。
「隊長殿、私にも後で稽古をつけてもらえますか」
「冗談、此方こそご教授願いてぇ」
以来、山南は隊士の中に女だの男だと言うものはいなくなった。局長、副長、隊長たちに並ぶ実力の持ち主。温厚な人柄に、少々厭味とも取れるインテリぶり。だが、誰彼無くにこりと笑いかけるその顔は、大の男を一撃の下に切り伏せられる実力とは掛け離れていて現実味が無い。剣は総悟と斉藤だが、人柄は山南さんと源さんだな、と近藤は言う。下の者の面倒を良く見、人当たりもいい。人見知りするきらいのある総悟が懐いているのをみて近藤は山南を褒めた。なァトシ、同意を求められた土方は気もなく相槌を打つ。
「じゃぁ行こうか、総ちゃん」
冷たいお茶を飲み干して山南は再び髪を括り縁を立った。総悟もそれに続いて道場へ入った。
「総ちゃんあんみつ嫌いだっけ」
「嫌いじゃァ無ェですが、夕飯食ったばっかりでさァ」
山南さんみたいに別腹ってぇ訳にはいかないもンで、総悟は突然そんなことを言い出した山南を見た。
「そうか、じゃァ、山崎辺りを誘おうかな」
縁側に腰掛け、アルミの灰皿に咥えていた煙草の灰を落とす。潰れかけたソフトケースと百円ライターがその上にある。
「行きますよ、一人じゃ物騒だ」
「私が?」
「いいや、あんたに噛み付いた野郎共がでさァ」
山南はおかしな事を言う子だねと笑い、煙草を消した。