さがしびと
「仲達がいない」
流れるように筆が紙を滑っていく。戦と共に逞しくなっていったが、しかし端麗なその手が綴る文字は、やはり綺麗だった。
曲がりなりにも彼は魏の国を統べる者だ。それくらい当然だろう。
そんな折、突如として曹丕の手が止まった。真剣で曇っていた表情が一転して光が宿る。そして呟いたその一言。
仲達。司馬仲達に他ならない曹丕が呼んだ名前の男。彼はいつも曹丕の側で執務やら何やらを手伝ったりしていた
が、今日に限って彼がいなかった。
「は……?」
側にいた護衛の兵がきょとん、とした表情を見せた。それもお構いなしに曹丕は言葉を続ける。
「聞こえなかったか。仲達はどこへ行った」
「はっ、申し訳ありません、生憎存じておりませぬ」
曹丕の言葉に、慌てて兵が答える。彼も、いつもいるはずの司馬懿がいないことに違和感を覚えていたが、ずっと
口に出さずにいたらしい。
「ふむ、そうか」
ずっと側にいると思っていたのだが、そうか……。
ひとりで何かを納得したように頷くと、曹丕は筆を置いた。そして何も言わずに立ち上がる。
「仲達を捜しに行く」
「えっ……」
兵の驚くような声もどうやら彼には届いていないらしく、まるでお構いなしとでも言うように
さっさと筆を片付けて、傍らに置いた自らの武器を手に取る。
いくら自身の住まう宮殿といえども、危険が全く無いわけではない。
そこらに兵が張っているとはいえ、自分の身は自分で守らねばならぬという曹丕の考えの表れ。
時には戦場を駆けて自らの手で武功を挙げたこともある彼だ。そうそう、他の者に始末されるような男ではないだろうが。
「全く、私に黙ってどこへ行ったと言うのだ仲達」
ぼやくような曹丕の呟き。普段から鋭いその瞳が、いつにも増して研ぎ澄まされていた。
余程、司馬懿がいないのが気に食わないのだろう。あからさまに不機嫌な表情を見せている。いや、彼は常に
それに近い表情をしていたか。
しかし足取りが心なしかいつもより速い。焦り……というものだろうか。一刻も早く司馬懿を見つけ出したいという衝動なのか。
彼が向かうその先に、果たして目当ての彼はいるのかどうか。今は検討もつかないが、まあ捜せばいずれ見つかる。
そう思って曹丕は歩く足を速めた。
司馬懿とてねずみなどではないのだ。隠れることもないだろうし、ましてや見つからないなんてこともないはずだ。
曹丕に黙ってどこかへ遠征、などするような男でもない。ほぼいつも、側にいた。
だからこそ曹丕は、司馬懿がいないことに苛立ちのようなものを感じているのだろう。
「仲達……」
そして、ふと捜し人の名前を呼んだとき。曹丕の目にまさにその当人が飛び込んできた。
綺麗に整えられた庭。その中心に立つ大木。この時間は丁度
涼しい陰を作り出すその木の下で、司馬懿は眠りこけていた。
「ほう。執務放棄か仲達よ」
そうやって不敵に笑う曹丕。しかしそこにはどこか安堵が見える。司馬懿がそこにいて
安心したような、そんな表情。
木にもたれかかって、兵法書を持ったままのん気に眠る司馬懿。起こさぬよう曹丕は彼に近づいた。
曹丕が側へやってきても全く気づいていないようで、規則的な呼吸がずっと続いている。
そっと司馬懿から兵法書を奪い取ると、曹丕はぱらぱらと目を通し始めた。
と言っても何度も何度も読んだ物だ。今更読んでもどうしようもない。殆ど覚えている。
「早く起きぬか、仲達」
言いながら司馬懿の体を揺するものの、全くと言っていいほど起きる気配が無い。
ここまで寝起きの悪い男だっただろうか、と曹丕は考える。
「仲達」
そして思わず司馬懿の顔を覗き込んだ。そこから突如として司馬懿と曹丕の顔が急接近する。
「……起きていたのか」
「ええ、つい今しがたに目覚めました」
「本当か」
「本当です」
曹丕は特に驚く素振りも見せずに、あと少しすれば唇が触れ合うのではないか、という距離であろうとも
全く気にせず会話を続ける。
後頭部を強く掴まれ、引き寄せられているこの体勢。うろたえでもすれば可愛いものだが、生憎と
曹丕にはそんな素振りをする根性などあるはずもない。
当然のことだとわかっていつつも、少しばかり残念だと思う司馬懿だった。
この男との付き合いは長い。とうにわかりきったことだが、少しばかり期待したい部分もある。
しかし彼が戦場で広げる軍略のようにそう上手くいくはずもなく。
(厄介な男だ)
そんな考えが、司馬懿の脳裏をよぎった。
「いい加減手を離してもらおうか、仲達」
「お断りします、と言ったらいかがいたしますか、曹丕殿」
「ならば永久にこのままだな。私も、お前も」
鳥が鳴く。それ以外には何の音も無い沈黙。
よく耳を澄ませば遠くから誰かの話し声が聞こえるが、ここには彼らふたりしかいない。
どちらかが口を開かねば破られない沈黙が、現れた。
交わる視線を逸らそうともしないで、互いに見つめ合う。どうかしたら睨み合っているようにも
見えるその光景。一体何を考えているのだろうか。
曹丕も、司馬懿も、感情をあまり露わにしない男だ。その胸の内を読み取るには些か苦労がかさむ。
「……そういえば」
その沈黙を先に破ったのは司馬懿だった。
「私に何か御用でも?」
体勢は変えないまま、司馬懿が訊ねる。
「いや……特に用というものでもない。お前がいないから、どこへ行ったのかと思ってな」
「私がいなくて寂しい思いでもしておりましたか?」
問われて、曹丕の口が僅かにつりあがる。ふっと小さく鼻で笑った。
否定とも肯定とも取れる曖昧で返事になっていない返事に、司馬懿は納得がいかないような表情を見せる。
「お前がいないと仕事がはかどらぬ」
「それはそれは。光栄なお言葉でございますな」
曹丕がどのような意味合いでそう言ったのか、司馬懿は知るつもりもないが、この男の
自分に対する考えに少々自惚れても良いようだ、と感じた。
「さて」
自身を抱きとめる司馬懿をさっさと引き剥がして、曹丕は立ち上がった。
最初から自分で起き上がれるならそうすれば良いものを、何故先程はわざわざ司馬懿に離すよう願ったのか。
曹丕なりに、何か思うところがあったらしい。
ほんの僅かな間でも、彼に抱きとめられても良いという意識の現われ、とでも言ったところか。
「仕事を放り出して来たからな。いい加減戻らぬと周りがうるさい。行くぞ仲達」
「……はっ」
その言葉と共に司馬懿も起き上がる。やれやれ面倒だ、と思いながら。
出来ることならここでもう暫く寝ていたかったが、この男直々に
迎えに来たのだ。従ってやってもいいだろう、と司馬懿は思う。
「仲達」
「はい?」
「私に黙ってどこかへ行くのは控えろ」
「何故ですか。理由を言っていただかねば従いかねますな」
不躾で突然の主命に、これまた司馬懿も不躾な態度で答える。
「わからぬか。ならば貴様も軍師としてまだまだだな」
「なっ……」
馬鹿にしたような視線。天より高いところから見下しているような視線。
思わず食って掛かりそうになるのをどうにか堪えた。
「……私の独断で推察した理由が少々ありますが、それで決定してもよろしいのですかな?」
そして冷静になった頭脳が掴み取った司馬懿なりの答え。
流れるように筆が紙を滑っていく。戦と共に逞しくなっていったが、しかし端麗なその手が綴る文字は、やはり綺麗だった。
曲がりなりにも彼は魏の国を統べる者だ。それくらい当然だろう。
そんな折、突如として曹丕の手が止まった。真剣で曇っていた表情が一転して光が宿る。そして呟いたその一言。
仲達。司馬仲達に他ならない曹丕が呼んだ名前の男。彼はいつも曹丕の側で執務やら何やらを手伝ったりしていた
が、今日に限って彼がいなかった。
「は……?」
側にいた護衛の兵がきょとん、とした表情を見せた。それもお構いなしに曹丕は言葉を続ける。
「聞こえなかったか。仲達はどこへ行った」
「はっ、申し訳ありません、生憎存じておりませぬ」
曹丕の言葉に、慌てて兵が答える。彼も、いつもいるはずの司馬懿がいないことに違和感を覚えていたが、ずっと
口に出さずにいたらしい。
「ふむ、そうか」
ずっと側にいると思っていたのだが、そうか……。
ひとりで何かを納得したように頷くと、曹丕は筆を置いた。そして何も言わずに立ち上がる。
「仲達を捜しに行く」
「えっ……」
兵の驚くような声もどうやら彼には届いていないらしく、まるでお構いなしとでも言うように
さっさと筆を片付けて、傍らに置いた自らの武器を手に取る。
いくら自身の住まう宮殿といえども、危険が全く無いわけではない。
そこらに兵が張っているとはいえ、自分の身は自分で守らねばならぬという曹丕の考えの表れ。
時には戦場を駆けて自らの手で武功を挙げたこともある彼だ。そうそう、他の者に始末されるような男ではないだろうが。
「全く、私に黙ってどこへ行ったと言うのだ仲達」
ぼやくような曹丕の呟き。普段から鋭いその瞳が、いつにも増して研ぎ澄まされていた。
余程、司馬懿がいないのが気に食わないのだろう。あからさまに不機嫌な表情を見せている。いや、彼は常に
それに近い表情をしていたか。
しかし足取りが心なしかいつもより速い。焦り……というものだろうか。一刻も早く司馬懿を見つけ出したいという衝動なのか。
彼が向かうその先に、果たして目当ての彼はいるのかどうか。今は検討もつかないが、まあ捜せばいずれ見つかる。
そう思って曹丕は歩く足を速めた。
司馬懿とてねずみなどではないのだ。隠れることもないだろうし、ましてや見つからないなんてこともないはずだ。
曹丕に黙ってどこかへ遠征、などするような男でもない。ほぼいつも、側にいた。
だからこそ曹丕は、司馬懿がいないことに苛立ちのようなものを感じているのだろう。
「仲達……」
そして、ふと捜し人の名前を呼んだとき。曹丕の目にまさにその当人が飛び込んできた。
綺麗に整えられた庭。その中心に立つ大木。この時間は丁度
涼しい陰を作り出すその木の下で、司馬懿は眠りこけていた。
「ほう。執務放棄か仲達よ」
そうやって不敵に笑う曹丕。しかしそこにはどこか安堵が見える。司馬懿がそこにいて
安心したような、そんな表情。
木にもたれかかって、兵法書を持ったままのん気に眠る司馬懿。起こさぬよう曹丕は彼に近づいた。
曹丕が側へやってきても全く気づいていないようで、規則的な呼吸がずっと続いている。
そっと司馬懿から兵法書を奪い取ると、曹丕はぱらぱらと目を通し始めた。
と言っても何度も何度も読んだ物だ。今更読んでもどうしようもない。殆ど覚えている。
「早く起きぬか、仲達」
言いながら司馬懿の体を揺するものの、全くと言っていいほど起きる気配が無い。
ここまで寝起きの悪い男だっただろうか、と曹丕は考える。
「仲達」
そして思わず司馬懿の顔を覗き込んだ。そこから突如として司馬懿と曹丕の顔が急接近する。
「……起きていたのか」
「ええ、つい今しがたに目覚めました」
「本当か」
「本当です」
曹丕は特に驚く素振りも見せずに、あと少しすれば唇が触れ合うのではないか、という距離であろうとも
全く気にせず会話を続ける。
後頭部を強く掴まれ、引き寄せられているこの体勢。うろたえでもすれば可愛いものだが、生憎と
曹丕にはそんな素振りをする根性などあるはずもない。
当然のことだとわかっていつつも、少しばかり残念だと思う司馬懿だった。
この男との付き合いは長い。とうにわかりきったことだが、少しばかり期待したい部分もある。
しかし彼が戦場で広げる軍略のようにそう上手くいくはずもなく。
(厄介な男だ)
そんな考えが、司馬懿の脳裏をよぎった。
「いい加減手を離してもらおうか、仲達」
「お断りします、と言ったらいかがいたしますか、曹丕殿」
「ならば永久にこのままだな。私も、お前も」
鳥が鳴く。それ以外には何の音も無い沈黙。
よく耳を澄ませば遠くから誰かの話し声が聞こえるが、ここには彼らふたりしかいない。
どちらかが口を開かねば破られない沈黙が、現れた。
交わる視線を逸らそうともしないで、互いに見つめ合う。どうかしたら睨み合っているようにも
見えるその光景。一体何を考えているのだろうか。
曹丕も、司馬懿も、感情をあまり露わにしない男だ。その胸の内を読み取るには些か苦労がかさむ。
「……そういえば」
その沈黙を先に破ったのは司馬懿だった。
「私に何か御用でも?」
体勢は変えないまま、司馬懿が訊ねる。
「いや……特に用というものでもない。お前がいないから、どこへ行ったのかと思ってな」
「私がいなくて寂しい思いでもしておりましたか?」
問われて、曹丕の口が僅かにつりあがる。ふっと小さく鼻で笑った。
否定とも肯定とも取れる曖昧で返事になっていない返事に、司馬懿は納得がいかないような表情を見せる。
「お前がいないと仕事がはかどらぬ」
「それはそれは。光栄なお言葉でございますな」
曹丕がどのような意味合いでそう言ったのか、司馬懿は知るつもりもないが、この男の
自分に対する考えに少々自惚れても良いようだ、と感じた。
「さて」
自身を抱きとめる司馬懿をさっさと引き剥がして、曹丕は立ち上がった。
最初から自分で起き上がれるならそうすれば良いものを、何故先程はわざわざ司馬懿に離すよう願ったのか。
曹丕なりに、何か思うところがあったらしい。
ほんの僅かな間でも、彼に抱きとめられても良いという意識の現われ、とでも言ったところか。
「仕事を放り出して来たからな。いい加減戻らぬと周りがうるさい。行くぞ仲達」
「……はっ」
その言葉と共に司馬懿も起き上がる。やれやれ面倒だ、と思いながら。
出来ることならここでもう暫く寝ていたかったが、この男直々に
迎えに来たのだ。従ってやってもいいだろう、と司馬懿は思う。
「仲達」
「はい?」
「私に黙ってどこかへ行くのは控えろ」
「何故ですか。理由を言っていただかねば従いかねますな」
不躾で突然の主命に、これまた司馬懿も不躾な態度で答える。
「わからぬか。ならば貴様も軍師としてまだまだだな」
「なっ……」
馬鹿にしたような視線。天より高いところから見下しているような視線。
思わず食って掛かりそうになるのをどうにか堪えた。
「……私の独断で推察した理由が少々ありますが、それで決定してもよろしいのですかな?」
そして冷静になった頭脳が掴み取った司馬懿なりの答え。