お待ちかねの悪意
エピローグ 彼のいる世界
「実はね、帝人君を東京に呼び寄せたのは俺なんだよ」
臨也が唐突に発した言葉に、書類整理をしていた波江が臨也を振り返った。
外出から帰ったばかりの臨也は、作業する波江を手伝いもせず、定位置の椅子に腰掛けていた。ニヤニヤと笑う臨也を見て、波江は無表情で思案した。
「あら、じゃあ、貴方がいなければ、私は職を失うことも、誠二と離れることも無かったのね」
波江の冷たい物言いに、臨也は歌うように言葉を紡ぐ。
「だから、こうして雇い入れてるじゃないか。ていうかそれ、正確には俺のせいじゃないからね? 何でも人のせいにしちゃいけないなぁ。実に良くない」
臨也は椅子の背もたれを鳴らした。
「それで、貴方はそれを言って、どうしたいのかしら?」
溜め息を吐きながら、波江は作業を再開した。だらしなく椅子にもたれかかりながら、臨也が口を開く。
「別に。どんな反応するかとなと思っただけ。ついでに言うと、君は俺に感謝するべきだよ」
「心当たりが無いわね」
取り付く島も無く切って払う波江に、臨也は悠々と語ってみせる。
「だってさぁ、俺がいなかったら、首はとっくにセルティの手に戻っていたと思うよ。逃げ出した美香ちゃんと、街中で追いかけっこしてたらしいからね。それを助けたのが帝人君。ね? 俺のおかげでしょ?」
波江は無言で答えた。臨也は特に気にすることもなく、独り言を呟く。
「まぁ、あの時点でセルティが美香ちゃんを連れ帰ったら、新羅と鉢合わせしてド修羅場になってたかもね。それはそれで面白そうだな」
「悪趣味」
波江が小声で呟いた。耳聡く聞き咎めた臨也は、唇に嫌味たらしい笑みを刷く。
「そりゃどうも。でも、趣味の話をするなら、波江さんも大概だと思うよ?」
「貴方にどう思われようと、私は痛くも痒くもないわ」
波江は不意に作業の手を止めて、携帯電話を取り出した。待ち受け画面にうっとりと微笑みかける。その光景を直視してしまった臨也は、苦笑を浮かべることしかできなかった。
波江から視線を外して、臨也は独り言を続ける。
「ま、正直、帝人君が高校で上京するかどうかは、五分五分だったんだけどね。大学からってのもアリだけど、そしたら今が味気ないし、やっぱ高校でラッキーだったな。友情に万歳だ。……紀田君にとっては、どっちがいいのか分からないけどね」
臨也は僅かに目を細めると、外出先で受け取ってきた、大判の封筒を開封した。数枚の書類と、CD-ROMを取り出す。
「そんなの、わざわざ受け取りに行かなくても、郵送してもらえば良かったのに」
臨也の外出中、ずっと仕事に追われていた波江が、恨めしそうに零した。携帯は既にポケットに戻したようだ。
「いいんだよ。懇意にしてるクラッカーなんだけど、引き篭もりでさ。連れ出すの結構面白いんだよね」
臨也は数枚の書類に軽く目を通していたが、とある一枚で手を止めた。
「ちょっと、波江さん波江さん」
臨也が波江を手招く。波江は、嘆息しながら臨也のデスクに近付いた。
「何よ」
「ちょっとこれ、どう思う? タイプ?」
臨也は波江の前に、写真がプリントアウトされた用紙を掲げた。写真には、三十代程度の男が写っている。波江は僅かに眉を寄せた。
「私は誠二しかタイプじゃないわ」
「あー、そうだった。そうじゃなくて、女性の一般論としてどう? モテそう?」
臨也から写真印刷用の分厚い用紙を渡されて、波江は写真の男をじっと見つめる。
「気持ち悪い」
波江が吐き捨てた。辛辣な物言いに、臨也が軽く肩を竦める。
「やっぱ、そうだよねぇ。女子高生が熱を上げてるって言うから、どんな色男かと思ったら。人間ってほんと分からないなぁ。しかもこれ、教師だよ? 教師。素行も滅茶苦茶悪いし、世も末だねぇ」
「こいつが教師だったら、とりあえずセクハラで訴えるわ」
臨也に書類を返しながら、波江が不快そうに呟いた。
「わぉ、ご明察。こいつ、セクハラもやってるよ。ま、こういうバカだとこっちは助かるんだけどね」
臨也は、写真の印刷された用紙を、書類の束の一番下に戻した。
「ほんと、ぞっとするほど上手く行き過ぎて、怖いぐらいだ」
不意に、臨也が気が抜けたような声で呟いた。何かを思い出すように天井を仰ぐ。波江が不審げに臨也を見つめた。
「……貴方、いつまでこんな馬鹿なこと続けるつもりなの?」
波江の問いに、臨也は場違いに穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだなぁ…………疲れて、動けなくなって、壊れて、死ぬまでかな」
臨也の返答に、波江は複雑な表情を浮かべた。臨也は、ぼんやりと天井を眺めたまま思索に耽っている。波江は頭の中で言葉を探し、溜め息混じりに呟いた。
「まるで狂気の沙汰ね」
波江は、気味の悪いものを見たかのように、臨也から視線を逸らした。