お待ちかねの悪意
「そして彼女はトイレに連れ込まれ、レイプされてしまいました」
臨也はさしたる興味も無く、グラスに半分程度残ったレモネードに口を付けた。無くなるとまた新羅が作ろうとするので、本当に口を付けるだけだ。
「それこそありがち。……彼女が振り向いた先には、何も無かった」
「は? オカルトはやめてよ」
臨也はあからさまに顔を顰める。
「最後まで聞いてよ。席にあぶれた乗客たちの間で、彼女の後ろだけ空間が空いていた。でも、誰も居なかったわけじゃない。車椅子に乗った男が、そこにはいた。痴漢は障害者だったんだ」
「……へぇ」
臨也は、初めて感心したような声を上げた。一方、新羅がグラスに口を付けようとして、空になっていることに気付いた。ウイスキーの瓶を探す新羅に、臨也が続きを促す。
「それで? どうなったって?」
「え? えぇっと、……そう、彼女は驚いた。学校とかで、障害者には親切にしましょうって習うよね? でも、彼女の目の前にいるのは、卑劣な性犯罪者だ。彼女はそれなりに賢かったから、障害者だから訴えられたりしないだろうという算段も透けて見えた。真面目に生きてきた彼女の世界は覆った。親や学校から教えられる常識と、直面した現実が完全に乖離した」
「なるほど。ちょっと面白いオチだったよ」
臨也は、新羅のグラスにミネラルウォーターを注いでやった。新羅は少し不満そうな顔をしたが、素直に口を付けた。臨也はほっと胸を撫で下ろす。これなら、タクシーを呼べば一人で帰れるだろう。善は急げと臨也が携帯に手をかけたとき、新羅が再び口を開いた。
「まだ終わりじゃないよ。その子、僕に何て言ったと思う?」
その時新羅は、臨也に回答を求めたようだった。
「さぁ?」
臨也は曖昧な相槌を打つに留めた。新羅は仕方なく話し始める。
「可哀想だって言うんだよ。その人が今に至る経緯を考えると、むしろ同情するってね」
「……良く出来たお嬢さんじゃないか」
臨也が戸惑いがちに言うと、新羅は熱が篭ったように言い募った。
「そう、その子は美人だし、それなりに賢い。でもね、嫌だったんだよ。実際、両親が心配するほど元気が無い。彼女は葛藤してるんだ。嫌なことを許すために、嫌な対象のことを熱心に考え、想像する。そうしないと我慢ならない自分を分かってるんだ」
「なるほどね」
多少の興味を感じて、臨也は目を伏せて状況を想像してみた。しかし、新羅は軽い口調で、臨也の思考を引き千切った。
「で、君はいつ痴漢に遭ったんだい?」
臨也は意味が分からず、言い間違いかと思って新羅の顔を見つめた。しかし新羅が訂正することはなかった。臨也は、自分の方が何か思い違っているのではと、頭の中で言葉を反芻したが、新しい解釈は生まれなかった。
「は?」
辛うじて零した声は、たったそれだけだった。
「話聞いてなかったの? 君だよ、君」
新羅が呆れたような表情で溜め息を吐く。
「だってさ、君、人を愛してるって言うだろ? 興味があるのは本当だろうけど、やってることは愛や好意とは程遠い。不特定多数に平等に接するわけでもない。君が実際平等にやってることは、相手を良く知ることによって、相手より優位に立とうとすることだけだ。そうじゃないと我慢ならない。ほら、彼女にそっくりだ」
新羅の言いたいことを理解して、臨也は口の端を歪めた。
「カウンセラーごっこなら間に合ってるよ。お前の発想は斜め上過ぎる」
「別に無理やりこじつけたんじゃないよ。痴漢はもちろん例えだけどさ。彼女と話してると、どうも君を思い出してね。どこかで歯車が狂ってしまったような、不安定で嫌な感じがそっくりだ。何の不自由もコンプレックスも無いような人間に、汚いものを放り込むとこうなるのかな、と思ってさ」
饒舌に語る新羅に、臨也はふと違和感を感じた。いつの間にか、新羅の滑舌は良くなっている。嫌な予感がした。
「新羅って、酒弱かったっけ?」
臨也が顔を強張らせながら問うと、新羅の視線が泳いだ。臨也はじっと新羅を見つめる。部屋を漂っていた視線が臨也の黒目に辿り着くと、新羅はにこりと笑った。
「弱くないって言ったら、テーブルの下のウイスキーを出してもらえるのかな?」