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【跑時候的王耀】本編準備号

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 月の袂で出逢った人は、兄と良く似た人でした。



 てんてんてん、と紅い鞠は軽やかに弾んで、ころころと転がって行った。
 パタパタと狩衣の裾を翻して走っている菊は、小さな手を一生懸命伸ばして追い掛けて行く。けれど森へと続く獣道は緩い下り坂に差し掛かっている事もあり、鞠は無情にも少しずつ加速しているようだった。
 飛んで跳ねて無邪気に転がる様は、まるで幼い菊をからかって弄んでいるようにも見えた。小石にぶつかって小さく跳ねる度にてんてんと小気味良い音が鳴り、遠目から見る分にはとても愉快そうに歌でも歌っているかのようにも見える。まるで悪戯好きの妖怪が鞠に乗り移り、持ち主である菊を揶揄しているかのように。
(まって……まってください)
 菊は息せき切って走り、鞠を追い掛けた。
 あれは兄に作って貰ったお気に入りの鞠だった。鮮やかな紅色の綿糸は兄の身に纏っている上着と同じ色をしていて、会えない日は抱き締めて眠ると寂しい気持ちを紛らわせる事が出来た。とても大切な鞠なのだ。それなのに手で付いて遊んでいた時に誤って足先に当ててしまい、庭の奥に続いている森の入り口の方へと転がしてしまった。失くしたくないと言う一心で、夢中で追い掛けて行くうちに、いつしか菊は森の中へと迷い込んでしまったらしい。
 夜になると危ないから、決して森に入ってはいけないあるよと、兄からは口が酸っぱくなるほど何度も何度も繰り返し諭されていた。その約束を違えたくは無かったけれど、でも兄から貰った大切な鞠をどうしても失いたくは無かったのだ。幸いな事にそれ程遠くない場所で鞠は止まっていた。あれほど楽しそうに弾んでいた様子が嘘のように、唐突に壁にでも当たったかのような不自然な停止の仕方だった。怪訝に思いながらも漸く追い付いた菊は、両手で拾い上げてしっかりと胸に抱き締める。おかえりなさいと心の中で呟いて、ホッと胸を撫で下ろした、その刹那だった。
 菊はふと前方に誰かの影が佇んでいる事に気付いた。
「……?」
 少し強めの風が吹いて、周囲の樹木がざわざわと枝を揺らしている。風力に耐え切れず、幾つかの葉が千切れて目の前に鮮やかな緑の吹雪を舞い散らせていた。
 菊に背を向けて立っている人は、背中に流れた長い髪を風に遊ばせる儘にしていた。白を基調とした簡素な装いの着物は、以前に文献の中で見た事の有る漢服と呼ばれている民族服に似ていると思った。
 元は黒髪らしいが、月の光を受けて立つ人の髪は淡く白銀に発光しており、今までに見た事も無いような綺麗な色をしていたので思わず見惚れてしまった。旋風が起こる度にざぁっと音を立てて粉塵や木の葉が舞い上がるのと一緒に、長い髪も一気に横に浚われるのに、風が止むと少しも搦んだり縺れたりする事なく、サラサラと背中に戻って来る。穏やかな漣を思わせるそれにしばし瞳を奪われていると、背中に注がれた視線に誘われるように、ゆっくりと彼は此方側に振り向いた。
 乱れた髪の隙間から垣間見えた瞳が月色に煌いている事にも驚いたが、完全に向き直った彼のその顔立ちを見て、菊は驚愕を隠せなくなった。無意識の内に足がとてとてと前へと進み、青年の顔をもっと良く見上げようとして首を傾げて覗き込む。
「……にーに?」
 目の前に立つ人は、血の繋がらない兄である王耀と瓜二つの容貌を持っていた。
 髪の色や瞳の色は兄とは僅かに異なるけれど、背格好は殆ど同じ位だと思う。何より胸の奥に伝わってくる魂の波動のようなものが、耀とほぼ同じ色をしていた。だけど自分の知っている彼とは何処か違う。表情も、雰囲気も、こんなに静かに、凪いだ湖のようにしっとりと沈着している兄は見た事が無い。
 耀はどちらかと言うと喜怒哀楽がはっきりとしていて、表情が手鞠のようにころころと変わって、春の風を思わせる飄々しさの中に嵐のような荒々しい気性も持ち合わせている激情家の面もあったけれど、でも自分に向ける顔にはいつも慈愛と親愛の笑みが含まれていた。然し目の前の青年から放たれているのは冷涼さの増した晩秋の空風のようであり、その気配は耳を澄ませば鈴虫の声が聴こえてきそうな程に閑静だった。動と静、光と闇。凡そ正反対と言っても良い程に受ける印象が違っているのだ。
「おいで」
 徐に紡がれた穏やかな声音を耳朶に受けて、菊はパチパチと円らな瞳を瞬かせた。青年の声は鼓膜に刻まれている兄の声よりも幾分低く、落ち着いた音色をしていて、やはり耀のものとは少しだけ趣が異なっている。
(この方、は……)
 この時になって漸く、菊は目の前の青年に対する違和感の原因に気付いた。
 姿形の全く変わらない耀と青年の間で、決定的に異なっている部分がある。その齟齬の正体は、〝自分〟だ。
 彼の眼差しは柔らかく優しいものだったけれど、恐らくは元来の子供好きする性格がそうさせているのだろうと思った。その瞳から注がれている視線は、慈しむべき対照として認識されているその他大勢の子供たちに向けるものと同じで、声音の中にも同様の思惟が垣間見えた。
 彼は自分を知らない。耀だったら確実に知っている筈の、自分の存在を知らずに居る。
「にーにじゃ、ないです」
 やんわりと差し伸べられた手を、もし耀から差し出されたものならば躊躇する暇も無く握り返しているだろう指先を、然し菊は冷静に拒否していた。胸に抱いた鞠をきゅっと握り締めると、此処には居ない兄に勇気を分けて貰っているような気がして心強かった。奮起した菊は迷っていた気持ちを振り切り、そっと唇を開く。
「貴方は、誰ですか?」
 月の袂で出逢った人は、兄と良く似た人だったけれど、決して耀本人では無いのだ。其れは考えて辿り着いた結論では無く、ほぼ直感に近かった。殆ど等しい魂を持っていれど、耀には成り得ない人。それがどんな意味を持つ現象なのか、幼い菊の理解に及ぶ範疇では無かった。
「…………」
 予想外に毅然とした態度できっぱりと否定を返されて、青年は微かに面食らったようだった。パチリと瞳を瞠った表情は少しだけ彼の雰囲気を幼くさせたが、然し直ぐに唇は薄く綻び、一瞬前よりも親しみの篭ったとても綺麗な笑みを浮かべる。その微笑は何処か作り物めいた儚さを併せ持っており、落としたら割れてしまう陶器を思わせて菊の心を不安にさせた。
 だが青年は菊の心配を他所にふわりと片膝を付いて目線の高さを同じくすると、流れるような仕草で腕を伸ばして菊の黒髪にそっと触れてきた。大きな掌で羽が触れるように頬を包み込まれ、長くしなやかな指先で擽るように髪を掬う。
「今の我に、名は無いよ」
「……?」
 謎語のように告げられた言葉の意味を捉えかね、菊は小さく首を傾げた。
 名前が無い、とはどういう意味なのだろう。自分の名前を知らないと言う事なのだろうか。それとも誰にも名を付けて貰っていないのだろうか。
 彼は一体、何者なのだろう。何処から来たのだろう。何故この寂しい場所で、たった一人で月を見上げて佇んでいたのだろう。
 尋ねたい事が沢山あるのに、訊くのが少しだけ怖いのと、それ以上に頬に触れる指先の冷たさが熱を帯びた肌に心地良くて、ずっとそのままで居て欲しいと思ってしまって、中々喋りかける切欠を生み出す事が出来ずにいた。