温かい胸
無言の八つ当たりのようなセックスが終わった後、もう少しだけ飲み直してから寝るかと冷蔵庫に向かおうとしたトムを、静雄の声が止めた。
トムさん、と呼んだ声はいつもの口調と何ら変わりなかった。振り返り、見下ろした彼の表情にも特筆するような変化は見られない。
そんな当たり前のような顔のままで、静雄は静かにこう言った。
「やっぱ女の方がいいなとか思ったら、すぐ言って下さい。こういうの、すぐやめますんで」
ぐっと声が詰まる。
やめるって、何をだ。
そう言ってやりたかったが、飲み込んだ。
そんな事、聞かずともわかりきっている。さっきのトムの台詞が彼にこんな言葉を言わせているのだ。聞きたかった嫉妬の言葉などでなく、返ってきたのは淡々とした諦めの言葉だけだった。
そんな簡単にやめられるようなものなのかと理不尽に傷ついている自分が馬鹿みたいだった。
静雄の表情は一つも変わらないままだ。
多分、彼の中の天秤も、ずっと狂いっぱなしだったのだろう。
トムの気持ちを言葉や態度で感じても、それでも天秤が自分の方にばかり傾いていると感じている。気持ちの比重が対等でないのだ。だから、当たり前のような顔であんな台詞が吐けるのだろう。
畜生。
眉を寄せ、ぐっと唇を噛みながら、トムは横たわったままの静雄の上に覆い被さった。ブリーチのし過ぎできしきしと軋む髪に指を差し込む。
どうしたらこの頭の中に、自分の気持ちを正しく叩き込んでやれるのだろう。
もっと欲しがって良いし、我が儘を言ったって良いし、困らせるような事を言ったって良い。物わかりが良すぎる事がこんなに自分を不安にさせるだなんて、静雄とこんな関係になるまで知りもしなかった。この自分の不安を、どう説明すれば良いのだろう。
痛んだ感触の髪を撫でながら、キスをする。
キスに応える彼の唇は、少しのぎこちなさも無く慣れたものだった。
身体だけならばもう随分馴染んでしまっているというのに、気持ちだけがまだ追いつけていないのだ。それが悔しくて、何だか切ない。
離した唇を指先で撫でながら、つまんねェ事言うなよ、と低く呟く。少し怒気の込められたその声に、静雄が不思議そうな顔をした。なぜ怒っているのかわからない。そんな顔で、トムの目をじっと見つめている。
その目に、ふうと小さく溜息が漏れる。
「…………いや、違うか。俺のせいだよな。俺が悪ィ」
つまらない事を言って彼の反応を見ようとした、自分の狭量さが原因だ。彼を責めるのはお門違いだろう。
静雄が突然あんな事を言い出したのは、間違いなく自分の心ない言葉が原因だ。女の身体と比べた事で、嫉妬するよりも先に彼は思ってしまったのだろう。やっはり女の身体の方が良いって事なのかな、と。
多分、彼の心は痛みに慣れすぎてしまっているのだ。傷ついても、傷ついた痛みに気付けない。あんな事を言われて傷付かないわけがないのに、それを痛みとして認識出来ていないのだ。だから表情も変わらない。トムにそれを悟らせない。
眉尻を下げ、ごめんなと力ない声で謝るトムに、静雄が不思議そうな顔で首を傾げる。
「何でトムさんが謝るんすか」
「俺が悪ィからだよ。お前がそんなだってのは、わかってるはずなのにな」
「そんなって、何すか」
「いいよ、別にわかんなくて。俺だけわかってりゃいいんだ、お前の事なんかな」
肩口にぐりぐりと額を押しつけながら、好きだぞと呟く。そうすか、俺もっす、と軽く返される。
そこにかかる心の比重を量るのは、もうやめにしよう。狂った天秤なんかで、互いの心が量れるわけもないのだ。
彼は何一つ嘘を吐かない。
それさえわかっていれば良い。彼が自分を好きだと言ってくれているうちは、余計な事など考えずに自惚れていればいいのだ。
だから。
「あー、お前本当に温けェな」
「そうすか? つーか、それならくっついてたら暑いんじゃないんすか」
「暑いくらいで良いんだよ」
「トムさん、暑いの苦手じゃないっすか」
「暑いのは嫌いだけど、お前とくっついてんのは好きなんだよ。昔はともかく、今の俺は冷てェ胸より温けェ胸の方が好きなの。─────ま、それもお前のに限るけどな」
そう言うと、静雄は短く息を吐いた。
表情の変化はあまり見られない。それでも、こんな関係になってからずっと静雄の事を見続けているトムにはわかった。
静雄は、ほっとしたのだ。良かった。彼が胸の中でそう呟いたのが、手に取るようにしてわかる。
表情を変えないまま密かに安堵した彼が、なんだか可愛くて可哀想で泣けてきそうだ。
俺が。
そうだ、俺がなんとかしてやればいい。変に八つ当たりのような方法など取らず、世慣れていない彼に一つ一つ教えてやればいいのだ。
我が儘ってのは適度に言ってもらえた方が嬉しいもんなんだよとか、あんまり物わかりが良すぎても不安になるもんなんだよとか、彼の知らないだろう事を一つ一つ。
そんな事をつらつらと考えながらじっと見つめていると、静雄は真面目な顔のまま、俺もトムさんとくっついてるの好きです、と抑揚の薄い声で言った。
多分これは、今の静雄にとって精一杯の甘えの言葉だ。
そう思うと胸が甘く痺れるような感じがして、トムは眉を顰めて笑いながら彼の言葉足らずな唇にキスをした。