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殉教者のためのスプーン

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絶望は、伝染する。


 おれはカーテンを閉め切った薄暗いホテルの一室で、背もたれの低い本革張りの椅子に腰掛けたまま、長い間じっとしていた。たまにサイドテーブルに置いたスコッチの壜からグラスに注いだ中身に口をつけ、グラスを置き、椅子の手すりをさすった。この国に来て三日になる。三日になるというのにまだ時差ぼけが治らない。日がな一日中、ホテルの部屋で明かりも付けずにじっとしているからだろう。今が何時なのかもよく分からない。眠気を覚えればベッドに横になったが、深い眠りは訪れなかった。
 さっきから部屋の電話が転がるような軽いコール音を発している。なかなか切れない。おれはため息をつこうと息を吸い込んだが、吐き出すことが出来ずに呻いた。それから手を伸ばして電話を取った。
 『ヘア・クリュッツェン、』
ドイツ語でフロントの女性がおれが名簿にサインした偽名を呼んだ。懐かしい訛りだ。祖父母は南ドイツの出身で、この国のドイツ語は彼らの話した言葉と少し近い。
『お会いしたいという方がいらっしゃっています。アルトゥール…、失礼お名前をもう一度』
おれは彼女を遮って答えた。
「通してくれ。体調が悪くて下に降りられない。済まないが部屋番号を伝えて」
『かしこまりました』
受話器を放り出し、グラスのスコッチを呷った。酒臭いな、と思う。数分後に来客がそこのドアから顔を出したときにかける言葉をつぶやいてみる。「何しに来た?」これでいい。刺々しくなく、努めて押さえ気味に、疲れた風を装って。いや装う必要などない、おれはとても疲れている、とても……。

 「難解な偽名を使わないでくれ」
アーサーはノックにおれがドアを開けた瞬間にそう言って微笑んだ。おれはどこか釣られたように唇の端を歪めて、そう涼しくもない季節に首まできっちりと着込んだ三つ揃えのスーツ姿にアタッシュケース一つを携えた彼を三日間ベッドメイキングも頼んでいない、アルコール臭が充満した部屋に招き入れた。
「ドイツ語は苦手か?」
「話せるには話せるが、発音が難しい。特にRとあの妙な記号の」
「ウムラウト」
「それだ」
彼は他人の泊まっている外国のホテルの部屋だというのを気にもとめない様子でアタッシュケースをベッドに放り投げ、その隣に腰を下ろした。この部屋にはど真ん中に余計なティーテーブルがあったが、椅子は一つしかなかったからだ。
「何しに来た?」
おれは定型文を口にした。思い通りの声音になったと思った。アーサーは特に無視するでもなく答えずに部屋を軽く見回した。あの一瞥で彼の頭にはこの部屋で例えばいきなり銃撃戦が始まったとしても最も適切な行動が取れるような情報がすべて読み込まれたことだろう。
「何か割のいい仕事でも?」
「いや。あんたの顔を見に来た」
「様子を伺いに来た、の間違いだろう」
おれはスコッチの壜に手を伸ばした。もう残り少ない。
「妻に自殺されて一週間の男が使い物になるかどうか見に来た」
「それもある」
「見立てはどうだ」
「暗いな」
それはおれに向けて言った台詞ではなかったようだった。彼は窓際まで歩いて行き、カーテンを半分だけ開けた。おれは急に差し込んで来た陽光に目をしばたかせた。太陽は西の空に傾きかけている。午後の四時といったところか。
「甘いものでも食いに行かないか」
アーサーは腕時計をちらりと見てからそう言った。逆光で表情が読みにくい。いやこいつの表情が読み易かったことなどあったかどうか。
「おれは酒を飲んでるんだ」
スコッチの壜を振って見せる。
「じゃあ、あんたはアルコール。ぼくは、そうだな、黒すぐりのケーキでも。シュテファン広場にテラス席を出してる良いカフェがあった」
「ザッハートルテは?」
アーサーは今度こそはっきりと笑った。
「あれはあんまり好きじゃない」

 おれが汗臭いシャツを脱いでシャワーを浴び、ひげを剃って、新しくホテルの近くの紳士服店で買ったワイシャツとスーツを身に着けるのを待つ間に、アーサーは部屋に置いてあった観光案内を読んでいた。三日も暇を持て余している間におれもそれは読んだ。シュテファン大聖堂、ウィーン楽友協会、中央墓地、モーツァルトハウス、フィアカーと呼ばれる二頭立て馬車、シェーンブルン宮殿、ホーフブルク王宮、エトセトラエトセトラ。おれはそのどれも見ていない。食事はホテルの中で済ませたし、着替えと酒を買い込むのに初日に繁華街を歩いたが、それきりだ。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
締めるのが面倒臭くなったネクタイを椅子の背もたれに放り出しながら訊いた。レストランに行く訳ではないのだから要らないだろう。アーサーは顔を上げ、観光案内を傍らに置くと代わりにおれのネクタイを拾って立ち上がった。またしても彼はおれの質問を和やかに無視した。それからずかずかとこちらに歩み寄ってくると、まるで手持ち無沙汰だからネクタイで遊ぶといった仕草でおれのシャツの襟の中にネクタイを通し、器用な手つきでハーフウィンザーノットに結んだ。おれは他人のネクタイを結ぶ———要するに日常やっているのと逆側から結ぶ———という芸当が出来ないので、少し関心してそれを見ていた。
「見立ては、悪くない」
アーサーはそう言っておれのタイの位置を整え、踵を返した。
「なんだって?」
問い返したときには彼はもう部屋のドアを開けていた。
「そのスーツの見立ては悪くない。行こう」


 おれが地下鉄のチケットブースでシュテファン広場の最寄り駅までの切符を買っている隙に、アーサーは向かいの売店で何か菓子のようなものを買っていた。これから菓子を食べに行こうというのに食い意地が張っている。戻って来た彼に切符を渡すと、代わりに早速開けた菓子の袋からひとつ取り出した茶色い粒を渡された。チョコレートかと思ったが、甘い匂いがする殻付きの栗のようだった。彼は親指の先ほどのそれを噛んで殻を割り、中身を口に放り込んだ。改札に向かって歩きながら真似をして食べてみた。ああ、パリの公園の屋台で売っていたのと同じ、甘い焼き栗だ。

 広場まで歩く間に教会の鐘の音が聞こえ始めた。最初は何の音だか分からなかった。石造りの建物すべてに反響してゆらゆらした陽炎のように響いていたからだ。広場に近づくにつれて音ははっきりした形をとり、小さな路地から大聖堂の脇に出た瞬間、いきなり巨大なカリヨンの音色が頭上に降り注いで来た。思わず片腕を上げて尖塔を見上げたほどだった。音の固まりが物理的に降ってくるように思えたのだ。
 広場は思ったよりも大きくはなかった。あちこちにパントマイマーがいる。突風に吹き飛ばされそうになっているビジネスマンの格好をしたまま微動だにしない男———髪の毛はワックスで、ネクタイとジャケットの裾は針金かなにかで風に吹き上げられた形に完璧に固められている。びっくり箱のようなカラフルな台の上に立った銅像に成りきった男。大きなねじ巻きを背中に取り付けて四十五度回るたびにお辞儀を繰り返すピエロ。全身顔まで銀色の宇宙人のような大道芸人は人気だった。いったい全部でいくつなのか数えるのも億劫な数のマシュを投げては受け取り投げては受け取りしている。
作品名:殉教者のためのスプーン 作家名:Julusmole