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殉教者のためのスプーン

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 大聖堂の入り口から少し離れたところの地面にしゃがみこんでいる青年が気になって近づいてみた。彼は片膝を立てた落ち着かなそうな姿勢のまま、水彩パレットとスケッチブックを石畳の上に置いて写生をしていた。聖堂ではなく、広場とその向こうに見える建物を描いている。おれは二度ほどその絵と実際の風景を見比べて、まだ絵の中に空が描かれていないことに気づいた。空は少しずつ夕暮れの色に染まり始めている。
 ふと、先ほどまで焼き栗の袋に手を突っ込みながらふらふらと前を歩いていた細身の男の姿の姿がないことに気づいて、辺りを見回した。思わず小さく嘆息する。お互い、迷子になるような歳でもあるまい。
 大道芸人の傍を抜けてカフェテラスらしきもののある方向へ歩いて行くと、小学生くらいの子供たちが十人ほど丸く円になって地べたに座りラジオを聴いているところに出くわした。親の姿はなかった。男の子も女の子もいっしょになって座り込んで、ただその円の真ん中におもちゃのような携帯ラジオが置いてある。特におしゃべりをして騒いだりスナックを食べ散らかしたりするでもなく、行き交う観光客を眺めたりあるいは広場の景色そのものを眺めていて、特に退屈しているわけでもないようだった。それがひどく不思議な光景に思えて足を止めていると、不意に後ろからおれを追い抜いてその子たちに近づいて行くやつがいた。アーサーだった。彼は子供たちの傍らにしゃがみ込むと、焼き栗の袋からひとつ栗を取り出して一番近くに座っていた女の子に渡した。それから袋ごと栗をすべてその隣の男の子に渡した。男の子は中身を二つ取り出して上に向かってぽんぽんと投げたあと、固い殻をどうやって剥いたものかといった顔をしながら袋をさらに隣の子供に回した。
 アーサーは子供たちに近づいて行ったときと同じくらいあっさりと彼らの傍を離れておれの隣に戻って来た。最初に栗を渡された女の子が笑顔でこちらに手を振った。
「向こうだ」
あのカフェ、とアーサーは明るい緑色のサンルーフが出ている店の方を指差してまた歩き始めた。

 カフェという割にその店のドリンクメニューはほとんどがアルコール飲料だった。アーサーは一番大きな写真付きで載っている鮮やかな桃色のフルーツジュースのように見える飲み物を注文したが、それもカクテルだった。黒すぐりのケーキはアメリカの基準から言えば少々控えめなサイズだったが、デザインはずっと洗練されていた。おれはビールを注文した。いくつか銘柄が並んでいたが、ウェイターは特に何も聞き返さずに注文を持ち帰った。ビールは大きなジョッキで『オッタクリンガー』と書かれた黄色い変形コースターの上に出された。おれはヨーロッパに来たからといってビールの味にあれこれうるさいことを言う方ではないが、その鮮やかな金色の飲み物は三日間引きこもっていたホテルの部屋で飲んでいたスコッチよりずっとさっぱりした味がしたのは確かだった。

 「刑務所はいやか?」
黒すぐりの実をフォークでゆっくりと刺しながら、アーサーが尋ねた。おれは失笑した。失笑というよりは口元の痙攣だったかも知れない。
「当たり前だろ」
「行ったこともないのに?」
「知ったふうな口だな」
アーサーは手首をひねって木の実を皿の上でねじり潰した。赤い果汁が飛び散り、実の中に残った汁が白い皿の上にじわじわと溢れた。
「ぼくは少刑上がりだ」
ジョッキを持ち上げようとした手が止まった。
「嘘だろ?」
「いや。十五のときに父親を刺した」
おれは無言で目の前の男の顔をまじまじと見つめた。ケーキを食べ終えたフォークを丁寧に皿に載せたときの表情に変化はなかった。どこか微笑んでいるようにも見える。いや、いつも彼はそうだ。うっすらと口元かあるいは目元か、顔のどこかに微笑みのかけらのようなものを浮かべている。
「ああいうところでは、自殺が流行る。一人が首を吊るとばたばた死ぬ」
自殺、という言葉が彼の口からあっさりと放り投げられたことにおれは動揺した。不快感を覚えたがそれを言葉にできなかった。ややあってから、彼は妙にのっぺりした口調で先を述べた。
「ぼくは看守の目を盗んで研いだスプーンで喉を刺したが、死ねなかった」
無意識にカフェテーブルの上にスプーンを探した。おれたちは二人ともコーヒーを頼んでいなかった。スプーンはなかった。
「終身刑でもあるまいし、どうして自殺しようとなんかしたんだ」
アーサーは不意に視線を上げ、おれの目を正面から見た。微かに笑っているという印象は消えなかった。
「流行ったからさ」


 観光から戻るとアーサーはおれと同じホテルに部屋を取ろうとしたが、小さなホテルだったせいか今夜は満室だと断られた。どこか別で宿を探す、と彼は言った。おれは頷き、残して来ていた彼の荷物を取りにいっしょに階段で二階へ上がった。このホテルに予約を入れるとき、二階の部屋にしてくれるように頼んでいた。三階でもぎりぎり良かったかも知れない。だが四階より上はだめだ。窓から飛び降りれば死ぬ高さは、だめだった。
 思えばアーサーの荷物はビジネスマンが書類運びに使うようなアタッシュケースひとつだけだった。旅行鞄は持っていなかった。それはとても奇妙なことのような気がした。自分のように身一つで逃げ出さなければいけなかった人間ならばわかる。だが彼は———少年刑務所出身だというのが本当だとしても、いまは表向きは善良なる合衆国市民に間違いない。おれの顔を見に来たというのは本当だったのか?アメリカにとんぼ返りするつもりであの荷物だったのだろうか?実際は小さくとも仕事の話を持って来ていたとか?ホテルで飲んだくれていたおれを見て、持ちかけるのをやめた?なぜさっきはあんな話を?本当は彼は何をしに来た?

 「アーサー」
彼はベッドの上のアタッシュケースを持ち上げながら振り向いた。
「お前、何しに来たんだ?」
長い沈黙があった。沈黙が長引くにつれて、おれは笑い出しそうになった。何をそんなに深刻な話があるだろう。一週間前、妻が結婚記念日に高層ホテルの部屋から飛び降りて自殺した。妻を殺害した容疑をかけられたために、我が子の顔さえ満足に見ることなくアメリカを離れた。彼女は死んだ。子供たちにはおそらく二度と会うことは出来ない。これ以上深刻な話があるわけがないのだ。
 笑いの発作が口をついて出て来そうになった瞬間、アーサーは持ち上げていたアタッシュケースをぽんとベッドの上に降ろした。留め具を跳ね上げ、ナンバーキーを二つとも合わせてケースを開いた。そしてその中から無造作に何か銀色の棒状のものを取り出して、目の高さに持ち上げて見せた。
作品名:殉教者のためのスプーン 作家名:Julusmole