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殉教者のためのスプーン

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 スプーンだった。傷だらけで不格好な、たぶんアルミ製の単純きわまりない形のスプーン。鈍く光るそれの丸い縁は、だが異様にぎざぎざとして、その食器がただ古いのではなくて何かでひたすら擦られ削り続けられたものだということを示していた。アーサーはそのスプーンをゆっくりおれと彼を隔てているティーテーブルの上に置いた。それから唐突にネクタイを緩め、隙間もなくきっちりと首回りを隠していたシャツの襟を乱暴に引っ張って広げて、わずかに首を左へ向けた。シャツの襟のぎりぎりに隠れていた首筋のその部分には醜く引き攣れた古傷があった。古いアルミスプーンの丸い縁と同じ幅と曲線の傷が。
 次に取り出されたのはナイフだった。グリップが木製の優美な形をしたナイフだ。それも小さなテーブルの上に置かれた。次もナイフ。ブレードからグリップまでステンレスで統一されたストイックな印象のナイフだった。それもテーブルの上に並べられた。次もナイフ。その次もナイフ。スプーンの隣に次々と並べられて行くナイフをおれはぼんやりと見ていた。
「最初にいっしょに仕事をしたチームのリーダーは若い頃重症の肺気腫をやったせいで片方の肺がなかった。病院の中で宗教学に傾倒したと言っていた」
アーサーの言葉もぼんやりとしていた。言葉の意味が脳に届くまで時間がかかった。
「例えばヒンドゥーの教えではこの世は神の見ている夢なんだそうだ。ぼくらが普段意識して見ない夢の中でも、自分が死ぬとその夢を一段階離れることになる。夢が浅ければ目覚めるし、深ければもうひとつ上か或いは下なのか、いずれにしろ今まで見ていた夢から『覚める』。意図的に作った他者の夢の中でもそうだ、ぼくはにっちもさっちも行かなくなって自分の頭に銃弾を叩き込んだことが何度かある。だが神の夢の中ではどうだ?神は無論自分ではないし他者ですらない。アブラハムの宗教は現実という夢の上にもう一段階夢を作り上げた。天国と地獄だ。神は人間が目覚めることを許さない。だからそいつはこんなことを言っていた、現実というのは心地の良い夢と同義だ、もしそこが人にとって離れがたく心地がいいならば現実だし、居心地が悪いのなら次の夢を見に行けばいいだけの話だと」
そんなものは、とおれは呻いた。そんなものは狂気だ。アーサーはまた一本ナイフを取り出してテーブルに置きながら小さく頷いた。
「わかってる。天国は夢じゃないさ。ところでナイフは嫌いか?」
彼は手を止めてアタッシュケースの裏蓋を返し、ナイフではなくハンドガンを取り出した。愛用のグロックではなくMK22だった。銃口にくるくるとサプレッサーを取り付ける。見慣れた手つきだった。夢の中では。そうだ、夢の中では。
「ハッシュパピーはナイフと同じくらい静かだ」
「やめろ」
「なあ、コブ」
 気に病むな。
 その台詞に頭が真っ白になった。テーブルの上に並べられた数十本のナイフを思い切り素手で払い落とした。いくつかの鋭い刃が手のひらや指を傷つけたが痛みは感じなかった。テーブルを蹴り倒し、怒鳴りつけた。
「お前に何がわかる!」
違う、とアーサーは穏やかに言った。
「そうじゃない。気に病むな。ぼくが、なにをしようと」
おれはそのときようやく彼の手に握られた、暗殺用拳銃がどこに向けられようとしているのかに思い至った。寒気がした。
「アーサーやめろ。頼む。やめてくれ」
「違う」
あんたの思い違いはひどいな、いつも。アーサーはそう言ってゆっくりと銃口をおれに向けた。

 おれは彼の銃がまっすぐに自分の頭を狙っていることも、その指が確信的にトリガーに掛かっていることも、セイフティなどとっくに外されていることも、よく分かっていた。分かっていたが動けなかった。いや動かなかった。両手を上げて命乞いをしようとはしなかったし、説得のために口を開くこともしなかった。代わりに銃口からゆっくり視線を離し、アーサーの顔を見た。笑っていなかった。まったくほんのわずかも笑っていなかった。
 何にしろそれは短い時間のことだった。彼は何の前触れもなくふっと風船でも離すように銃を握っていた手を開いた。ハッシュパピーは重力に従って床に向かって一直線に落ちてゆき、とん、と絨毯の上で一度跳ねたあと、ナイフとスプーンの中に混じり合って見えなくなった。


 彼は床の上に広がる金属の海をうつむいてじっと見ていた。おれは彼が泣いているのではないかと思った。けれどやがて口を開いたアーサーの声はいつも通り、さしたる起伏もなく震えてもいなかった。
 なあ、コブ。こうは思わないか。例え夢から目覚めなくても、死ねば天国で彼女に会えるかもしれない。
「モルは天国にはいない」
血を吐くような思いで口にした台詞は文字通りおれを打ちのめした。
「自殺したから、彼女がいるのは地獄だ」
そうだ、とアーサーは答えた。
「だからぼくはあんたを地獄には行かせない」
ぜったいに。

 おれはうつむいたままの相棒にゆっくりと歩み寄り、乱れた胸元に手をかけた。古傷が隠れるようにきっちりと襟を立て、ボタンを留めて、緩んだタイの裏に手を回して小剣を引きノットを元の位置まで押し上げてから、ベストの中のタイをきれいに戻してやった。けれどそれ以上一体何をしてやればいいのかがおれにはどうしてもわからなかった。おれはただただ無能だった。モルを引き止められなかったように、彼女自身の行いから彼女を守れなかったように、きっとこいつを引き止めることもできないだろう。おれの思い違いと、誤った行為と、差し伸べる手の拙さのせいで。
 ふと、ナイフを払いのけたときに傷つけた指で触ったせいで、彼のシャツの白い襟に血の染みを作ってしまっていたことに気づいた。多分タイも汚したに違いない。おれは切り傷がいくつも血をにじませている自分の手を見て、それから足下に散らばる金属の海を見た。その中でひときわ無垢な様子できらきらと光っている古びたアルミのスプーンは、まるでおれの前でこうべを垂れ首を落とされるのを待つように目を伏せている男の喉元に未だに突き刺さっている絶望そのもののようだった。
作品名:殉教者のためのスプーン 作家名:Julusmole