紫青インセプションパロ
記憶の檻に閉じこめておいてどうするのよ、とハナさんは言った。死んだ人間をいつまでも閉じこめておくなんて、あんたにもあの子にもよくないわ。現実を夢に映し出すなと言ったのはあんたじゃないの。早く解放してあげなさいよ、あの子と、自分自身を。
何も知らないくせに偉そうに、と僕は思った。ハナさんに、コンビを組んでいる先輩にすら黙っているのは僕なのに、知らないくせに説教なんてしてほしくないと思った。
――現実に戻りたくない。
深く深く、幾度下の層へ降りたかわからないくらい、虚無すれすれまで深くに潜って、十数年をかけて自分たちの理想の街を作り上げ、粉々に破壊しきってから、そろそろ上の層へ戻ろうかと話していたときだった。ねえカメちゃん、とリュウタがおずおず言い出したのは。
――上へ戻るのが怖い。
何を言ってるの、と僕はリュウタの震える手を取った。二十年分の年月が僕たちの手には刻み込まれていた。時の流れに逆らわずに歳を重ねていたから。外見の変化に対してリュウタの口調は昔のままで、けれどちぐはぐには感じなかった。
――もう随分こっちにいたよ。これ以上、現実にいる僕たちの体をほっぽっておくわけにはいかないでしょう。僕には仕事があるし、お前にもある。
あの装置を使って夢に潜ったのは遠い過去のようだが、実際には二時間かそこら前のはずだった。日曜日の午後で、適当に遊んで目覚めるつもりだったから、タイマーをかけていなかった。今思えばそれがいけなかったのだ。僕の言葉を受けたリュウタは真顔で呟いた。
――現実って、何?
――何、って――
――これが夢だって、現実じゃないなんて誰が決めるの?
――リュウタ、
――何も変わらない、僕たちの夢は現実と何も変わらないよ。ここでの時間がどれくらい経ったか覚えてないけど、向こうで僕がカメちゃんと過ごしたよりはよっぽど長い時間が、こっちで経ってるよ。現実って何なの?
結果から言うと、説得はできなかった。得意の話術を尽くして辛抱強く、それこそ一年近くかけて僕たちは現実に戻らなくてはならないのだと伝えたのに、リュウタは聞く耳をもってくれなかった。戻りたくない、戻るのが怖いと首を降り続けた。二人でずっとここにいようよ、戻らなくてもいいじゃない。
僕を夢の世界に誘ったのはリュウタだったのだが、彼は夢と現実とを混同しないために、常に小さな金属の独楽を持ち歩いていた。現実ではそのうち倒れちゃうけど、夢の中ではくるくる周り続けるんだよ。夢と現実を見極めてしまうその独楽を、リュウタはいつのまにかどこかへ隠してしまった。
散々探しまわったあげくそれを見つけ出し、リュウタの深層心理に暗示をかけた。ここは夢だ。僕たちは現実に戻らなくてはならない。戻るには、死ぬしかないんだ。――何も言わずに彼を殺してしまうべきだったのかもしれないが、例え現実でなくとも、僕にはリュウタを殺せなかったから。
――死んで、現実に戻ろう。
おもしろいくらいあっけなく、リュウタは決意を翻した。僕は心からほっとして、なら早く戻ろうとその背を押した。ずっと一緒だから。唯一骨組みを残していた高いビルの屋上から、二人で手を繋いだまま身を投げた。
夕日に赤く染めあげられた寝室で目を覚ました。時計を見ると、三時間強しか経っていなかった。もう二度とあれほど深くに潜るのはよそう、浅い層を漂うだけにしよう、そうすればうまく現実を生きていけるだろう。
しかし、事はそう単純ではなかった。
僕の植え付けたアイディア――ここは夢だ、死んで現実に戻らなくては――というアイディアが、癌細胞のようにリュウタの頭を蝕んだ。カメちゃん、いつまでも夢にいたらだめだよ。早く現実に戻らなくちゃ。一緒に死のう?
あれほど切々と心中を説いていた僕は、今度は思いとどまらせるのに必死になった。いつ自殺をはかられるか怖くて片時も目を離せなかった。この世界はそのチャンスに満ち満ちているのだと、ナイフや睡眠薬を取り上げながら、高い建物に上りたがるのを引きはがしながら思った。ここは現実なのだ、死んだら終わりだから死なないでくれ、とどんなに懇願しても意味がなかった。度重なる無益な口論に僕たちは疲れはてた。知らなかった。深層心理に囁いたそれが、現実に戻ってきてからも生き延び続けるだなんて、知らなかったのだ。
――僕たち、目を覚まさなくちゃ。
その日は雲一つない快晴だった。からっと乾燥した秋の空気の中、やたらと喉が渇いた。フェンスの外側で、強風にあおられているリュウタは今にも飛ばされていってしまいそうだった。ゆるやかに波打つ髪がぶわっと広がって目元を覆い隠した。
――バカなことするんじゃない。
脚が棒になったように動かず、僕はその場に立っているのが精一杯だった。僕が先に行ったらカメちゃんも追いかけてきてくれるでしょ? 無邪気に微笑うリュウタに血の気が引いた。飛び降りたら殺してやるから。大いなる矛盾を抱えつつ、僕は本気でそう思っていた。ふざけるな。一人で死んだら殺してやる。リュウタが死にとりつかれたのは僕のせいなのに、どうして分かってくれないのだと憤怒していた。
――じゃあこっちに来てよ。一緒に行こう。
――僕は行かない。お前がこっちに来るんだ。聞け。夢に逃げるな。お前の現実はここなんだ。
――違うよ。
リュウタは決然と首を振った。
――僕たちは夢を見ているんだよ。いつまでもこうしてちゃいられないんだ。現実に戻って、人生をいきなくちゃ。仕事もあるしさ。
――いいか、リュウタ、フェンスに捕まれ、やめろ、やめろって、死んだら二度と会えない、夢から覚めたりしない、落ちたら死ぬだけだ、やめろって言ってるだろ、ここにいる僕たちが現実なんだよ!
喉を枯らして叫んだ僕に、あいつは言った。
――嘘つき。
そして飛び降りた。
何も知らないくせに偉そうに、と僕は思った。ハナさんに、コンビを組んでいる先輩にすら黙っているのは僕なのに、知らないくせに説教なんてしてほしくないと思った。
――現実に戻りたくない。
深く深く、幾度下の層へ降りたかわからないくらい、虚無すれすれまで深くに潜って、十数年をかけて自分たちの理想の街を作り上げ、粉々に破壊しきってから、そろそろ上の層へ戻ろうかと話していたときだった。ねえカメちゃん、とリュウタがおずおず言い出したのは。
――上へ戻るのが怖い。
何を言ってるの、と僕はリュウタの震える手を取った。二十年分の年月が僕たちの手には刻み込まれていた。時の流れに逆らわずに歳を重ねていたから。外見の変化に対してリュウタの口調は昔のままで、けれどちぐはぐには感じなかった。
――もう随分こっちにいたよ。これ以上、現実にいる僕たちの体をほっぽっておくわけにはいかないでしょう。僕には仕事があるし、お前にもある。
あの装置を使って夢に潜ったのは遠い過去のようだが、実際には二時間かそこら前のはずだった。日曜日の午後で、適当に遊んで目覚めるつもりだったから、タイマーをかけていなかった。今思えばそれがいけなかったのだ。僕の言葉を受けたリュウタは真顔で呟いた。
――現実って、何?
――何、って――
――これが夢だって、現実じゃないなんて誰が決めるの?
――リュウタ、
――何も変わらない、僕たちの夢は現実と何も変わらないよ。ここでの時間がどれくらい経ったか覚えてないけど、向こうで僕がカメちゃんと過ごしたよりはよっぽど長い時間が、こっちで経ってるよ。現実って何なの?
結果から言うと、説得はできなかった。得意の話術を尽くして辛抱強く、それこそ一年近くかけて僕たちは現実に戻らなくてはならないのだと伝えたのに、リュウタは聞く耳をもってくれなかった。戻りたくない、戻るのが怖いと首を降り続けた。二人でずっとここにいようよ、戻らなくてもいいじゃない。
僕を夢の世界に誘ったのはリュウタだったのだが、彼は夢と現実とを混同しないために、常に小さな金属の独楽を持ち歩いていた。現実ではそのうち倒れちゃうけど、夢の中ではくるくる周り続けるんだよ。夢と現実を見極めてしまうその独楽を、リュウタはいつのまにかどこかへ隠してしまった。
散々探しまわったあげくそれを見つけ出し、リュウタの深層心理に暗示をかけた。ここは夢だ。僕たちは現実に戻らなくてはならない。戻るには、死ぬしかないんだ。――何も言わずに彼を殺してしまうべきだったのかもしれないが、例え現実でなくとも、僕にはリュウタを殺せなかったから。
――死んで、現実に戻ろう。
おもしろいくらいあっけなく、リュウタは決意を翻した。僕は心からほっとして、なら早く戻ろうとその背を押した。ずっと一緒だから。唯一骨組みを残していた高いビルの屋上から、二人で手を繋いだまま身を投げた。
夕日に赤く染めあげられた寝室で目を覚ました。時計を見ると、三時間強しか経っていなかった。もう二度とあれほど深くに潜るのはよそう、浅い層を漂うだけにしよう、そうすればうまく現実を生きていけるだろう。
しかし、事はそう単純ではなかった。
僕の植え付けたアイディア――ここは夢だ、死んで現実に戻らなくては――というアイディアが、癌細胞のようにリュウタの頭を蝕んだ。カメちゃん、いつまでも夢にいたらだめだよ。早く現実に戻らなくちゃ。一緒に死のう?
あれほど切々と心中を説いていた僕は、今度は思いとどまらせるのに必死になった。いつ自殺をはかられるか怖くて片時も目を離せなかった。この世界はそのチャンスに満ち満ちているのだと、ナイフや睡眠薬を取り上げながら、高い建物に上りたがるのを引きはがしながら思った。ここは現実なのだ、死んだら終わりだから死なないでくれ、とどんなに懇願しても意味がなかった。度重なる無益な口論に僕たちは疲れはてた。知らなかった。深層心理に囁いたそれが、現実に戻ってきてからも生き延び続けるだなんて、知らなかったのだ。
――僕たち、目を覚まさなくちゃ。
その日は雲一つない快晴だった。からっと乾燥した秋の空気の中、やたらと喉が渇いた。フェンスの外側で、強風にあおられているリュウタは今にも飛ばされていってしまいそうだった。ゆるやかに波打つ髪がぶわっと広がって目元を覆い隠した。
――バカなことするんじゃない。
脚が棒になったように動かず、僕はその場に立っているのが精一杯だった。僕が先に行ったらカメちゃんも追いかけてきてくれるでしょ? 無邪気に微笑うリュウタに血の気が引いた。飛び降りたら殺してやるから。大いなる矛盾を抱えつつ、僕は本気でそう思っていた。ふざけるな。一人で死んだら殺してやる。リュウタが死にとりつかれたのは僕のせいなのに、どうして分かってくれないのだと憤怒していた。
――じゃあこっちに来てよ。一緒に行こう。
――僕は行かない。お前がこっちに来るんだ。聞け。夢に逃げるな。お前の現実はここなんだ。
――違うよ。
リュウタは決然と首を振った。
――僕たちは夢を見ているんだよ。いつまでもこうしてちゃいられないんだ。現実に戻って、人生をいきなくちゃ。仕事もあるしさ。
――いいか、リュウタ、フェンスに捕まれ、やめろ、やめろって、死んだら二度と会えない、夢から覚めたりしない、落ちたら死ぬだけだ、やめろって言ってるだろ、ここにいる僕たちが現実なんだよ!
喉を枯らして叫んだ僕に、あいつは言った。
――嘘つき。
そして飛び降りた。
作品名:紫青インセプションパロ 作家名:マリ